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思索の森と空の群青

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2008年 08月 06日

民主主義への教育?

晴れ


広田照幸『21世紀の社会と教育』(アドバンテージサーバー、2008年)より。


なぜ、民主主義なのか。

世の中の出来事に、『正しい答え』が常に一つだけあって、そこに辿り着くだけならば、民主主義は要らないです。要りません。だけど、社会の出来事には、『正しい答え』がなかったり、逆にたくさんあったりするから、それでみんなが集まって議論をし、判断をしないといけないわけですね」(p. 32)。


21世紀、どのような教育が必要か。

もし公教育がそういう役割に〔=民主主義に向けて〕何か貢献していこうとすると、みんなで賢い選択、ちゃんとした議論と、賢い選択ができるような市民をつくること――これが重要だと思います。〔……〕『賢い市民』をつくる教育を、もうちょっと考えていく必要があるだろうということです。〔……〕私がいう『賢い市民』というのは、社会で起きていることを『自分に関わる問題』として考えられる、というのが一つあります。〔……〕少なくとも、現在、けっこう広がっているような、社会や政治に無関心な若者に〔ママ〕溢れている社会とか、ワイドショー的な情報で世論が動いてしまうという社会というのは、これは危ない状態です。〔……〕イメージやムードだけで多くの人が投票したりすると、とんでもない結果になりかねない時代です。あるいは、誰も関心を持たず、意見や批判の声をあげていかなかったら、とんでもなく乱暴な政策や制度が立案され、実施に移されたりしてしまう危険性も強まっています。不透明で流動的な時代になってきたために、政治や経済が暴走してしまう可能性が高まっているわけです。だからこそ『賢明な市民』が必要です。社会の構成員である『市民』が、主体として、政治システム・経済システムを制御したり、システムのあり方を決定したりする役割を果たしていかないといけないということです」(pp. 24-25)。


「議論したくない、わざわざ議論をしに公共空間に行きたくない、政治システムも経済システムも関心のある人だけで作って回してくれればいい」と本気で思っている人をどう遇するか、という問題がある。「来なくていいよ」と言うのか、多少強引にでも「出てきて議論に交ざれよ」と言うのか。

もちろん、そういう考え方の人間にしないために、いわば「予防策」としての教育をどうするか、という議論がここではなされているわけであるが、しかし「これが正しい」という普遍的な考え方がないのであれば、「議論したくない、政治システムも経済システムも関心のある人だけで作って回してくれればいい」という考え方も無下に否定できないはずである。

若者はこう言うかもしれない。

「おまえは『社会の構成員』だろ」と言われても、おれはこの社会に生まれたくて生まれてきたわけじゃねえよ。そもそもおれはおれの意志で生まれてきたわけじゃねえ。それなのに、「おまえはこの社会に生まれてきたんだからこの社会何とかしようっていう意志を持て。そして実際に何とかしろ」っていうのはかなり一方的で暴力的じゃねえか。いまこの社会がこうなっているのはおれの責任じゃなくておまえらの世代の責任だろ。おれたちに押し付けるな。

教育にはすくなくともこういう側面があるように思う。

だが、「民主主義」は果たして唯一絶対に正しい考え方なのであろうか。あるいは、「民主主義」は「よりましな」考え方なのか。「民主主義」が「よりましな」考え方なら、「もっとましな」考え方だってあるかもしれない。では、その「もっとましな」考え方とは何か。若者がその「もっとましな」考え方を持っているかもしれない。

しかしそれは、若者が議論の場に出てきて話をしないと、「なかったこと」にされてしまう。

そして、議論の場に出てくることが「民主主義」の第一歩なのだ。

ということなのかもしれない。

ならば、議論の場に出てきたくない人を「議論の場に出てこい」と力ずくで引っ張り出すことは、「民主主義」の名のもとで正当化されることになるのであろうか。

8月7日追記:
そのような「力ずく」をしないためにも、「教育」という柔らかな営みによって、「民主主義」こそが「よりましな」考え方であることを子どもに伝達する、というより、子どもに信じさせる。

唯一絶対に正しい答えはない、という考え方は、たしかにそうかもしれないと思う一方で、「『唯一絶対に正しい答えはない』という考え方は唯一絶対に正しい」というメタ・メッセージを送ってもいる。

結局は、わたしたちは何かを(とりあえず、でも)信じるところからしか出発することができないのだ。

だから、何を信じるか、という原理的な地平から議論を起こしてゆく必要がある。そしてすくなくとも民主主義は、その地平を提供してくれる。しかし、「信じる」という位相で議論ができるのか。

「わたしは春が好き。あなたは?」「わたしは夏が好き、春はあまり好きじゃないわ」

となると、とりあえず小さなところでも合意できるところは合意して話をしましょう(寒いのは嫌よね、とか)、ということになるのか。

小さな物語の乱立。

民主主義ってポストモダンなの?


@研究室

by no828 | 2008-08-06 21:12 | 思索の森の言の葉は


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