晴れ のち くもり、 のち 夕立 と思われたが結局降らず
西平直『教育人間学のために』(東京大学出版会、2005年)より。
ところで「教育人間学」とは何か。〔……〕様々に言葉を並べてみるのだが、納得できたためしがない。ほとほと困り果てた末、ある時期から、私はこう答えるようになっていた。……教育人間学とは、分かっていたことを分からなくする学問である。
教育とか、人間形成とか、考え始めると分からないことばかり。本当のところ確かなことは何一つない。「わかる」と言えるのは、ある前提に立つ場合のみ。その前提を掘り返すと、また分からなくなる。どうすることが善いことなのか、まるで分からなくなる。教育人間学とは、そうした掘り返しの作業、「わからなさ」に留まり続ける営みである……。
それでは説明になっていない、と言われるならば、たとえば、こういうことである。この本は、教育と人間を大切にする。しかし、この本の狙いは、教育から
離れ、人間から
離れることである。「離れる」とは、この場合、縛られないこと、距離をとること。しかし、離れ去ってしまうのではない。もう一度出会い直す。引き受け直す。そうした還り道のダイナミズムを含んだ「離れる」である。
教育人間学は、教育への一途な期待ではない。むしろ、教育という営みの限界を確認し、その営みの根拠となさを確かめる。何が善いことなのか、何が子どものためになることなのか、議論の前提を掘り返してゆく。
しかし教育の否定ではない。まして告発ではない。そうではなくて、一度教育への素朴な期待から離れた後に、あらためて教育に
出会い直す。そうした反転を内に秘めた仕掛けである(pp. 246-247。強調は原文。ただし、原文は傍点)。
ここを読んだとき、ひどく興奮して、ひどく共感して、わたしは一気に赤線を引いた。「それでいいのだ」と、背中を押されたようであった。
しかし、「教育人間学」とは何かがわかったわけではない。「教育哲学」とはどのような関係にあるのか。
@福島(帰省中)