2008年 09月 02日
晴れ 8時30分に研究室に来る。 論文を読んでいたが、それとは別のことで思考がぐるぐるしている。集中できない。だからその思考のぐるぐるをここに出力しておく。出力すれば、論文を読むことに集中できるはずだ。 ぐるぐるとしているのは、大きく言ってしまえば「研究とは何か、研究者とは誰か」ということである。これはいま考えはじめたというわけではなく、むしろ大学院に入ってからずっと考えていることであり、後者の「研究者とは誰か」については、わたしの研究テーマに引きつけて6月末の学会で発表してきたところである。 それでも、いまになって論文を読むことを妨害するほどに思考が回っているのは、上記テーマについて新しい入力があったからだ。 「はしもとくんの言っていることって、全然泥臭くないよね」 「研究とは何か、研究者とは誰か」をめぐって(すくなくともわたしはこのことについて話していたつもりなのだが)、昨夜わたしはそのように言われた(前にも2回、別の人に同じようなことを言われたことがある)。論理的すぎる、理想主義的である、現実はそんなに甘くない、そのような意味で言われた。 わたしはこの一言にずっと引っかかっている。 なぜわたしはこの一言に引っかかっているのか。それを書いておく。書きながら考える。だからまとまらないとは思う。でも、書いておく。 わたしは、理想を語ること、イマニュエル・カントの言葉で言えば「統制的理念」を語ることは大切だと考えている。その理想=統制的理念によって、現実(の暴走)に対して歯止めを掛けることができる、そのように考えているからである。 たとえば、以前ここに玄侑宗久の文章を引いたが、そこでは「憲法9条を変えろ、なぜなら憲法9条は現実に合っていないからだ」という論理が批判されていた(すくなくともわたしはそのように読んだ)。わたしも玄侑と同じように考える。 ここでは憲法9条が理想=統制的理念として位置付けられている。だから現実に合っていないという性格がむしろ擁護される。「現実と合っていないから憲法を変えろ」という論理がおかしいのは、「現実に殺人が行なわれているのだから殺人してもよいことにしろ」がおかしいのと同じことである。 理想は、「理想」である以上、目の前の現実とは異なっている。現実とは異なっているからこそ理想になる。現実と異なっていなければ理想にはならない。 そういった性格を持つ理想に対して「非現実的だ」という言われ方がされるが、それは理想への批判にはならない。それは「理想」の語義を説明しているだけである。(もちろん、文脈によっては理想に対する「非現実的だ」という論難が意味を持つこともあろうが、それについてはここでは探らない。) だが、わたしはそもそも理想は非現実的ではありえないとも考える。なぜか。そこで語られる理想とは、現実に生きるほかでもないこのわたしが語っているからである。現実に生きるわたしが語る理想が現実から離れて存在することはありえない。理想を語ることは現実を語ることでもあるとわたしは考えているのだ。 以上のように考えるわたしには、だから「泥臭くないよね」が引っかかる。 さらに別の角度から見れば、「泥臭い」とはそもそもどういうことなのか、という疑問が出る。 昨夜の議論の文脈で言えば、現地調査すること、フィールド・ワークすることが「泥臭い」ということになる。 この話をするためには、昨夜の議論の文脈をもうすこし詳しく書いておかなければならない。 昨夜は、「アクション・リサーチ」のように、研究者が「現場」(これもよくわからない言葉だ)に行ってその場の問題解決にその場の人びとと一緒に取り組みながら研究する方法に対する見方・考え方をめぐって議論された。言うまでもなく、わたしの論争相手はフィールド・ワーカーである。 わたしの立場としては、というより、マックス・ヴェーバーのような社会学の立場からすると(わたしは昨日ヴェーバリアンであれば何を言うであろうと考えながら話した)、「アクション・リサーチ」のように「現場」にある何らかの立場にコミットすることは可能なかぎり避けるべきだ、ということになる。なぜならば、立場は価値(あるいは信念)に支えられているが、どの立場=価値がよりよいものかは誰にもわからないからである。ヴェーバーは、そのような価値をめぐる議論を「神々の闘争」と呼び、学問(社会学)の対象からは外すべきだと言ったのであった。 もちろん、社会学であっても「現場」には行く。アクション・リサーチと異なるのは、できるだけ客観的に記述することに徹し(言うまでもなく完全に客観的になることは不可能だが)、価値から離れて議論しようとするところである。 ヴェーバリアンの社会学が価値から離れようとするのは、先にも書いたように、価値をめぐる議論に決着をつけることはできないからである。 では、誰が価値をめぐる議論をすればよいか、ということになるが、わたしはそれは哲学者がすればよいと考える。哲学者とは誰かと言えば、「自分の頭で考える人すべて」にわたしのなかではなる。そのなかでも、とくに大学の教員のような「職業的哲学者」(このような言葉があるかどうかは知らないが)は、「いろいろな人がいろいろなことを考えている」ということをより広く、そしてより深く踏まえたうえで自分の頭で考えることになる(が、現実はそうはなっていない)。 話がやや逸れた。 ヴェーバリアンの社会学は、目の前の/誰かの現実を研究対象にするが、その現実にある価値からは離れて議論しようとすると書いた。その理由は価値をめぐる議論に終わりはないからである。議論の終わりを告げるのは神しかいないからである。 しかし、研究者がヴェーバーの教えを破って現実の価値にコミットすることがある。「アクション・リサーチ」とはそういうことであると思う。では、この何が問題か、と改めて問うてみるとき、わたしが考える答えは、「研究者は『現場』の人びとと同じように問題を実感することができない、つまり『当事者』ではないがゆえに当該問題についての責任(応答可能性)をとることができないにもかかわらず、その問題に何らかの立場=価値に立ってコミットすること」である(最近、責任=応答可能性とは何かを考えている)。 また、研究倫理の問題とも関連してくると思うが、「アクション・リサーチ」のように研究者がある立場に立って現実の問題にコミットする、現実の問題に変化が生じる、その変化(改善/現状維持/改悪)について論文に書く、という流れがわたしにはどうも納得できない。言葉を選ばずに言ってしまえば、それが「自作自演」のように映るからである。 しかし、広く見れば、研究とはすべて自作自演であるかもしれない。ならば、自作自演は問題ではないということにせざるをえないのか。 あるいは、問題のある自作自演と問題のない自作自演があるのか。「現場」で価値にコミットするアクション・リサーチャーの自作自演には問題があって、むしろ「現場」には出ずに象牙の塔に引きこもって価値にコミットする職業的哲学者の自作自演には問題がないのか。 よくわからない。 よくわからないままに最後に書いておきたいのは、「現場」とか「泥臭さ」はフィールド・ワーカーにだけあてはまる言葉ではないはずだ、それは現実を研究対象とする理論研究者にもあてはまるはずだ、ということである。本を読む、論理を積み上げる、論理で行けるところまで行ってみる、思考回路がショートする寸前まで思考する、理論を構築する、理想を語る、それもまた「現場」なのであり、そのような仕事も十分「泥臭い」とわたしは思う。 かく言うわたしは、最近「臨床哲学」に惹かれている。 @研究室
by no828
| 2008-09-02 12:06
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自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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