思索の森と空の群青

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2018年 02月 14日 ( 1 )


2018年 02月 14日

「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である——村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』

 村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?——紀行文集』文藝春秋、2015年。23(1090)


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 アメリカ、アイスランド、ギリシャ、フィンランド、ラオス、イタリア、そして日本。題名にあるセリフは、村上春樹本人のものではない。

 アメリカ東海岸で勉強したかった、というか、勉強したい気持ちに改めてなった。

 引用文中の「哲学」は「理念」や「箴言」のほうがよい。「哲学」を「理念」や「箴言」の意味で使うのはやめたほうがよい。それは哲学ではない。哲学は、たとえば“旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行かもしれない”とも考えてみることだ。

12)夏には並木がこの遊歩道の路面に、くっきりとした涼しい影を落とす。ボストンの夏は誰がなんと言おうとすばらしい季節だ。ハーヴァードやBU(ボストン大学)の学生たちが必死にレガッタの練習をしている。女の子たちは芝生の上にタオルを敷いて、iPodを聴きながら、すごく気前のいいビキニ姿で日光浴をしている。アイスクリーム売りがヴァンの屋台を出している。誰かがギターを弾いて歌を歌っている。犬がフリスビーを追いかけている。でもやがてニューイングランド独特の、短く美しい秋がそれにとってかわる。僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつほのかな黄金色に場所を譲っていく。そしてランニング用のショートパンツの上にスウェットパンツを重ね着するころになると、枯れ葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という堅く乾いた音があたりに響きわたる。そのころにはもう、リスたちが冬ごもりのための食料集めに目の色を変えて走り回っている。

51-2)でもたとえ大きな樹木がなくても、茫漠と広がる溶岩台地がどこまでも苔の緑に包まれ、あちこちに小さな寒冷地の花が可憐に咲いている様は、なかなか美しいものだ。そういう中に一人で立っていると、時折の風の音のほかには、あるいは遠いせせらぎの音のほかには、物音ひとつ聞こえない。そこにはただ深い内省的な静けさがあるだけだ。そういうとき、我々はまるで、遠い古代に連れ戻されてしまったような気持ちになる。この島には無人の沈黙がとてもよく似合っている。アイスランドの人々は、この島には幽霊が満ちていると言う。でももしそうだとしても、彼らはとても無口な幽霊たちなのだろう。

106-7)実を言えば、自分では今でもまだ「若手作家」みたいな気がしているんだけど、もちろんそんなことはない。時間は経過し、当然のことながら僕はそのぶん年齢をかさねた。なんといっても避けがたい経過だ。でも灯台の草の上に座って、まわりの世界の音に耳を澄ませていると、あの当時から僕自身の気持ちはそれほど変化していないみたいにも感じられる。あるいはうまく成長できなかった、というだけのことなのかもしれないけど。

111)次にこの島を訪れるのはいつのことだろう? いや、もう二度とそこを訪れることなんてないかもしれない。当たり前のことだが、どこかに行くついでにふらりと立ち寄るというようなことは、島についてはまず起こりえない。僕らは心を決めてその島を訪れるか、それともまったくその島を訪れないか。どちらかしかない。そこには中間というものはない。

132)「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である。

151)さて、いったい何がラオスにあるというのか? 良い質問だ。たぶん。でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。 ※原文省略

165-6)ルアンプラバンで歩いてのんびり寺院を巡りながら、ひとつ気がついたことがある。それは「普段(日本で暮らしているとき)僕らはあまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれは見る必要があるから見ているのであって、本当に見たいから見ているのではないことが多い。電車や車に乗って、次々に巡ってくる景色をただ目で追っているのと同じだ。何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。本当の自前の目でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにはだんだんわからなくなってくる。
 でもルアンプラバンでは、僕らは自分が見たいものを自分でみつけ、それを自前の目で、時間をかけて眺めなくてはならない(時間だけはたっぷりある)。そして手持ちの想像力をそのたびにこまめに働かせなくてはならない。そこは僕らの出来合の基準やノウハウを適当にあてはめて、流れ作業的に情報処理ができる場所ではないからだ。僕らはいろんなことを先見抜きで観察し、自発的に想像し(ときには妄想し)、前後を量ってマッピングし、取捨選択をしなくてはならない。普段あまりやりつけないことだから、初めのうちはけっこう疲れるかもしれない。でも身体がその場の空気に馴染み、意識が時間の流れに順応していくにつれて、そういう行為がだんだん面白くなってくる。

229)そうそうそれから、この街にいるあいだに、川上哲治氏が人吉市の出身であることをふと思い出した。ずっと昔、『川上哲治物語 背番号16』という映画を見た。人吉の学校の野球部で投手として活躍していた川上少年は、「こんな田舎にいては、せっかくの才能が埋もれてしまうから」と、熊本市内の野球強豪校にスカウトされる。そして故郷の人吉を離れる。川上少年もきっとバットとグラブを大事に抱え、僕が乗ったのと同じ肥薩線のSLに乗り、球磨川の美しい流れを眺めながら、不安と夢を胸に一路熊本に向かったんだろうな。

240)実際の話、害になるどころか、そのトピアリーの居並ぶ光景に惹かれて思わず車を停め、ついでに店に寄ってトウモロコシを買って食べてしまう観光客が数多くいるわけだし(僕らもまさにその一員だった)、このトピアリーの群れは営業的見地から見て、大いに有益であると断言してかまわないと思う。それを「芸術」と呼ぶことはおそらくむずかしいだろうが、少なくとも「達成」と呼ぶことはできるはずだ。そして我々が住むこの広い世界には、批評の介在を許さない数多くの達成が存在するのだ。僕らはそのような達成、あるいは自己完結を前にしてただ息を呑み、ただ敬服するしかない。


@S模原

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by no828 | 2018-02-14 22:42 | 人+本=体 | Comments(0)