思索の森と空の群青

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2018年 05月 13日

人々に和すためではない。人々に立ち向かうために学ぶのだ——門井慶喜『東京帝大叡古教授』

 門井慶喜『東京帝大叡古教授』小学館(小学館文庫)、2016年。76(1143)

 単行本は2015年に小学館

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 日本に大学が東京と京都の2つの帝大しかない時代のミステリ。主人公は宇野辺叡古(うのべ・えいこ)というウンベルト・エーコに似た名前の教授。語り手は阿蘇藤太(あそ・とうた)という偽名の学生で、彼が何者なのか、のちに何者になるのかが結末で明かされる。

26)「それなら、本名は隠すがよかろう〔中略〕将来この大学に入学したとき『ああ、あの高梨教授が死ぬ現場にいた』などとささやかれるのは万事よろしくない。つくべき運も離れよう。いまは仮面をつけておけ」
「し、しかし私は士族の家の……」
自尊心など捨ててしまえ。そのために人間は学問をするのだ

69)「高梨君とは敵味方の仲だったが、それとこれとは話がべつだ。もっと長生きさせてやりたかった。おそろしいのは無知の善意だな。悪意よりもおそろしい

160)「文学に熱中しろとは言わんが、藤太、政治にしか興味のない政治家、法律にしか関心のない法律家にだけはなるな。人の世を沙漠にするのは、そういう連中だ

174)「未知の街を歩くことは、未知の自分を見つけることだ

176)恋愛とは、発言不可能の一形態なのだ。

435)「人はなぜ、学問をするのか〔中略〕お前が私に聞いたことだぞ。藤太」
「あ、はい」
 むろん、おぼえている。半月前、おちかと伊三郎が家に来たあと、教授はしばらく外出せず読書や執筆に没頭したことがあったけれども、私はそのとき、この質問をしたのだった。教授は答を得させてはくれなかったが、
「いまこそ教えてやろう〔中略〕人が学ぶのは、よい学位を得るためではない。よい職業に就くためでもない。道徳の涵養のためでもなく、人類の知の発展のためでもなく、学問そのものの愉楽のためですらない。人が学ぶのは、藤太よ、自分でものを考えるためだ
「自分で、ものを……」
「そうだ。誰もがノーと言う日にイエスと言う。誰もが感情に身をまかせる日に冷静になる。それは口で言うは易しいが、おこなうは絶望的にむつかしいことなのだ。勇気がいるし、闘志がいるし、何よりも高い識見がいる。わかるか?
「はい」
しかしそういう人間がいなければ、集団というものは、ひいては一国の国民そのものが、こぞって過ちを犯してしまう。破滅への道を突き進んでしまう。或る種のねずみの集団自殺のようにな。藤太よ、お前はこれから、人々に和すためではない。人々に立ち向かうために学ぶのだ。よいな

448)「芸術は万人の理解を欲しない

453)「人の話を聞くときは、ただ聞く羊になるな。発言の機をむさぼる狼であれ

@S模原

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# by no828 | 2018-05-13 23:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 05月 10日

「贈与」が始源でそこから経済社会の「交換」が生まれた。逆はない——江弘毅『街場の大阪論』

 江弘毅『街場の大阪論』新潮社(新潮文庫)、2010年。75(1142)

 ウェブサイトなし
 単行本は2009年にバジリコ

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 わたしにはこのような街では育っていないし、そのような街で生きてはいないし、おそらくはいま生活している街をそのような街にしようという真剣な思いがないから、だと思うが、本書の「街」に——あるいは大阪に——憧れとともに居心地の悪さも感じる。わたしはストレンジャーでしかなく、それを寂しく思うと同時に、いつまでもストレンジャーでいたいとも思っている。

 51ページの引用部分は、とくに目を見開かされた。そこに想像が及んでいなかった。

 155-6ページの「純粋贈与」はおもしろいと思った。当然のことながら教育に引きつけて考え直してみたが、教育は忘れられることをたぶん望まない。物質性は残らないが、非物質性は残る。

20)子どもが学校へ行って教育を受けるのは、学力テストの点を高くとれる子どもになるためではなく、大人になる準備をするためだ。子どもはいくら偏差値が高くても、決して大人ではなく、やっぱりアホな子どもに違いない。しかしどういうわけか、偏差値だけは高い子どもが大人になってもなお「アホなことしくさって」と顔をしかめさえることが多くなってきた現実を、最近よく目の当たりにする。けれども昔から大阪の街場の間では、まったく逆の話が好まれるのである。それは、ある子どもが大人になり「人からエラい」といわれる存在になった際に、「あいつはガキの頃、ほんまにアホやった」とい類の話題である。あの子どもはこんなことをし、あんなことを考えてたと、その頃の実話を昨日のように嬉しそうに話す。そういう街の先輩や同級生たちがどれだけいるかで、その人の人生の値打ちみたいなものが測られるのが、大阪という街のおもろさである

46-7)彼らは生まれた時から消費者としてターゲット化され、お金を払って買ってくれるなら小学生であっても、消費主体=「お客さま」として神様扱いされてきた。街的な店ではそういうことは絶対ないが、子ども自身の「自己決定」による消費は歓迎され、その都度、「お客さま」はある種の全能感を得る。漢字もろくに読み書きできず、人に対してものの言い方すら知らないガキでも、消費者つまり顧客だから、気に入らなかったらデパートの店員さんにクレームを付け、時には「責任者出てこい!」「店長を出せ」とキレるのも自由だ。そういう綿菓子のように甘ったるいが、実はコアがない経済合理性交換原理の世界では、自分が消費したり所有したりすることにおいては専制君主で、自分の所有していないものや空間にどういうふうに接して良いかがわからない。だから、公園や駅や電車の中という無所有領域では放縦になる。

51)「うちの戦前生まれの叔母は、子どもの頃、教育をきちんと受けられなかったので、読み書きが得意ではない。店に入っても難しいメニューが読めない。だから、目の前にネタが並んでいて『これ握って』と言える鮨屋のカウンターとか、サシを見てそのものズバリの肉を選んで、焼き方や大きさは好きに指示できる鉄板焼き屋ばかり行っていた

76)店から金と引き替えに何かを出させ、それをゲットするというラッキー志向の考え方はもはや通用しない。客はいろんな店を食べ歩いている。しかし店は、いろんな客をそれ以上にカウンターの内側から見てきている。

109-10)店の気配というものは、ほかの何所でもないその店で、ほかの何ものでもないその人が、時おり垣間見させる〈実生活〉や「実人生」といった代替不可能なものにこそあるが、その気配を読み取ることが、すなわちコミュニケーションである。今日のメニューや魚の種類や野菜の産地やワインの作り手について訊ねたりすることが、店とのコミュニケーションではない。〔中略〕毎日マクドナルドに行っても、一日に複数回ローソンに行くようなことがあっても、その店の馴染みということにはならない。そこは徹頭徹尾、〈交換〉の原理に基づいた経済〜消費社会だ。行儀や礼儀は同一のマニュアルに書いてあり、明日から交代可能なアルバイトたちが「店」をやっている。そして東京でも博多に行っても同じイントネーションの「いらっしゃいませ、こんにちは」は、もちろん大阪キタでもミナミでも、岸和田でも同じで、よく聞けば中国人(あるいは韓国人)の留学生だったりすることが多くなってきた。けれども制服の彼らからは、〈生活者〉という姿はうかがえない。

112)この手の「情報バラエティ番組」はスタジオの「空気感」そのものがすべてで、要するにその「場の空気」を誰かがつくり、お笑いタレントや時には文化人や大学の先生といったコメンテーターが、よってたかってその「場」とか「空気」とか「流れ」を読んでどんどん会話を転がしていくものである。そこでは「つかみ」とか「ノリ」、あるいは「笑いを取る」といったコミュニケーション技法が全面にあるだけで、彼らのメッセージの輪郭はなかなか見えてこない。ひょっとしてその話に中身なんてないのでは、というのが言い過ぎだろうが、「場の空気を読むことに、コミュニケーションのリソースを使い果たすようなコミュニケーション」(@平川克美)に長けた人間、これをタレントとか言うのだろうと、納得することにしている。

139-40)ものを考えるということは、言葉で考えるという以外に足場を持たないことであり、ものを書くということは、自分で書いた言葉を耳で聞くということではないか。その意味で、わたしのなかでわたしを基礎づけている言葉が「考えるときは標準語でものを考える」ということはないし、まして「本格的に思考するときの言葉は標準語になる」というようなことは断じてない。標準語イコール考える言葉で、それが書き言葉であるという図式は、わたしの場合は完全に当てはまらない〔中略〕世の中には、どうしてもそこでしか生きていけない人もいるし、そこの言葉でしか話せない人もいる。だからこそ世界は面白い。

153)人に何かを贈るということは、モノの売買つまりカネとモノの「交換」ではない。それは「贈与」である。そして「贈与」が始源でそこから経済社会の「交換」が生まれた。逆はない

155-6)わたしが「手みやげ名人」と目す、大阪の主婦〔中略〕や阪神間のゼネコンの偉いさん、岸和田の祭礼関係者などなどに「手みやげ」のそのココロについて訊くと、口を揃えて「相手さんに『贈られたこと』を余計に意識させないモノが良い。だから『残らない』食べ物や酒がふさわしい」という答えが返ってきた。〔中略〕このちょっと違った感覚は、贈与とは別のもので、それを贈与の極限にあるところの「純粋贈与」と中沢〔新一〕さんは呼んでいる。「純粋贈与」ではモノは受け渡しされるが、その瞬間にモノの物質性が破壊されることを望む。「贈与」は贈られたことを忘れないが、「純粋贈与」とは贈ったこと贈られたことが記憶されるのを望まない。誰が贈ったかも考えられなくなる。だからいっさいの見返りを求めない。〔中略〕けれども手みやげは、誰かが何かを贈ったことを完全に忘れられると、その意味をなさない。だからこの「贈与」とちょっとした「純粋贈与」の「あわい」のようなところが難しい。

253)「知ってる店」というのは、その店のご主人なり女将さん、鮨屋ではカウンターを挟んだ調理人、はたまたフレンチやイタリアンでは給仕人やソムリエが「知り合いである」ということであり、極端な話、お好み焼き屋でテコをカチャカチャいわしている人が親戚のおばちゃんであったり、そのレストランのシェフが中学校の頃の同級生であったりする店ならアドバンテージは最高レベルだ。そういう「知ってる」は程度の違いこそあれ、街的生活にとっては不可欠の関係性である。

274-5)これから入力されるものについて予断的な情報を求めないこと、もっぱら自分の身体感覚を軸にして入力の質を判断すること、この二点は私が武道修行と哲学研究をつうじて体得した構えである。それは「学ぶ」ための、ひろく言えば「経験する」ための基本設定であると思う。 ※解説・内田樹「街場のインフォーマント」

277)「じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。この形而上的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。」(ホセ・オルテガ・イ・ガセー『大衆の反逆』、寺田和夫訳、中央公論社「世界の名著56」、1971年、444頁)江さんが「街的」なふるまいと認めるのはオルテガが「形而上的ためらい」と呼んだものにずいぶん近いものではないかと私は思う。

@K府

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# by no828 | 2018-05-10 23:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 05月 09日

タイミングはいつだって悪いもんだよ——舞城王太郎『みんな元気。』

 舞城王太郎『みんな元気。』新潮社(新潮文庫)、2007年。74(1141)

 http://www.shinchosha.co.jp/ebook/F604661/ ※ただし電子書籍
 単行本は2004年に新潮社より刊行。文庫化にあたりなぜか単行本収録分より3篇が選択・収録。電子書籍は(単行本のまま?)5篇が収録されている模様。

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 短篇集。あいかわらずぶっとんでいる。そしてあいかわらず倫理が、というか、倫理への意志が示されている。

22-3)「昔の恋愛なんて、全部架空の話みたいなもんだからさ」
「?」
「お互いが好きだったらこうなるっていう、条件結果の話だろ?恋愛のことって。好きっていう前提がなくなったら、起こったことだけが残って、起こった理由とか根拠とかなくなってるから、凄い宙ぶらりんな感じなんだよな。やっぱりいくら事実でも、それが起こるための前提とかなかったら、小説読んだのと感覚変わんないよ」
「なんだかさっぱり」
「でもさ、前の彼女のことを好きだった自分と、今枇杷のこと好きな自分って違うわけだし、…結構、誰のこと好きかって、人格にとって大きいもんじゃね?
「ふうむ」
主人公が違う話は、やっぱ、違う話なんだよ。連続してない

56)「あの子が俺らん中入って、ひょっとしたら俺ら、うまくいくかもしれんねーし」
「うまくいくって?」
「仲良くやれるってこと。家族がさ」
「そんな道具にしないでよ、朝ちゃん」
子供なんて親の道具なんだよ、ある意味では。当たり前じゃん

63)「人生諦めちゃってるあんたみたいに何でもかんでも諦めらんないんじゃない?そう簡単には」
「……」
あんたこそ、中途半端に頑張らずにもう一回諦めれば?」と姉が続ける。「どうせあんた、ホントはどっちでもいいような感じなんじゃないの?実際さ、中途半端な無気力君の脱力人生、気張って見せたって底が知れてるよ。やめとけば?みっともないから」

65)「あんな口喧嘩ぐらいでへこんでたら、地上じゃもたないよ。あんたホント空に浮かんでて良かったね。マジでうらやましいよ。私とかもっともっと酷いこと言われてんだから〔中略〕それに、シカトとか、空じゃないでしょ?苛めがない分全然楽じゃん。ラッキーだよあんた。学校行ってなかったら友達関係とかあんまり考えなくていいっしょ
バカ〔中略〕そういうのがうちん中にあるんだよ
あ、そうなの?〔中略〕それは辛いね。でもそういうもんか。四六時中一緒にいればねー。やっぱ他に世界がないとね。うーん、そういうのって、逃れられないもんかなあ

110)死体を物に還元する、という言い方は間違いで、死体は還元するまでもなく物なのだけど、人は死体に故人の思い出を重ねるので、普通の物とは違う扱いをする。でも人にはそれぞれ大事にしている物があって、それらも思い出やら思い入れやらのせいで特別性が与えられ、愛でられているのであって、そういうふうな人の大事な物と、自分が知ってる人の死体と、愛で方にどんな違いがあるんだろう?

126)「タイミングはいつだって悪いもんだよ

172)まだいろいろもっとたくさん選択肢はあるに違いない。いや、選択肢はもっと作ることができるんだ。まだ選択肢になってないところからもっと選べるんだ。そうして増やした選択肢の中から私はもっとよく考えて選べるはずだ。もっとよく考えて選んでいかなくてはならないのだ。植木バサミを振るって人の首をちょきんちょきんと切るような重い決断をしていかなくてはならないのだ。でも人が人生を生きるというのはそもそもそういうことで、みんなそうやって生きているんだ。平気で、元気に、気づかずに。

193)「あのね?あんたは誰かを殺したいと思ってる。それは、でも、あんたの優しさがそうさせたいと思わせてるんじゃないの?そういうのはありえない?


@S模原

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# by no828 | 2018-05-09 23:11 | 人+本=体 | Comments(0)