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思索の森と空の群青

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2018年 05月 07日

われわれが法の担い手であり、権利の担い手であり、政府を法によって拘束しているのはわれわれなのです——佐々木中『踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ』

 佐々木中『踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ』河出書房新社、2013年。72(1139)


われわれが法の担い手であり、権利の担い手であり、政府を法によって拘束しているのはわれわれなのです——佐々木中『踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ』_c0131823_22184128.jpg

 政治は本来われわれのものである。それを思い出せ。いまはどうだ。考えろ。示された言葉でわかった気になるな。その言葉を自分で吟味しろ。

13)全ての法というのは、上位の法である「憲法」に立脚して立てられなくてはならない。これが立憲主義の基礎です。立憲主義はローマ共和制まで遡ることができる古い理念で、端的に言えば、「統治(gubernaculum)」は「司法(jurisdictio)」によって拘束され、制限されねばならないということです。人民によって制定された憲法は、統治を行ういかなる政府にも先行し、これを制定し、そして束縛する。ゆえに、いかなる恣意的支配もこれを禁じている。誰が? われわれ人民が、ですよ。ローマ法のもっとも深く古い原則は、人民全体が、法的権威の終局的源泉であるという、このことだったのです。偉大なるローマ人の歴史的遺産は、これに尽きる。〔中略〕トマス・ペインが言っているように、政府と憲法の区別がない国家は、事実上、専制である。そして専制に陥った政府は「無法」を犯しているのであるから、われわれ人民はこれを「罰する」ことができるのです。

17-8)だから「法律を守れ」「国家が立てた法律をお前ら人民は守れ」というのはおかしな話です。その法律はわれわれ人民が打ち立てた憲法に準拠せねばならないはずのもので、そしてわれわれは戦後六十数年改憲してこなかった。何度もいいます。われわれが法の担い手であり、権利の担い手であり、政府を法によって拘束しているのはわれわれなのです。その憲法に違反している法を守らなくてはならない、そんな謂れなんてない。われわれが国家なのであり、われわれが法の根拠である。だからこう言い返しましょう——「法を守れ。君たちこそ最上位の法を守れ」と。〔中略〕われわれの近代法すべての父であるローマ法の精神に則れば、「国家たる人民に逆らっているのは現政府である」という言い方が可能なのです。

75)外国語はなかなか読めないし、その翻訳は読みづらいと皆言うわけです。でもね、あなたたちに日本語が読めますか。日本語が喋れますか。日本語が書けますか。そんなことが本当に可能なのか。そうカフカとヘルダーリンは言うんです。これが本当にものを考えるということです。本当の文学者が考えることです。言葉と戦っている人間が考えることです。

102-3)さて、今から十秒間、僕は黙ります。…………はい、十秒経ちました。この十秒間で何が起きたか。僕は十秒間、死に近づいたわけです。十秒間、死に行きを生きたわけです。もっと言うと、十秒分、「腐った」わけです、僕は。言っていること、わかりますか。十秒分老いて、十秒分死に近づいて、十秒分腐ったわけです。この身の、肉も骨もね。そういう意味でも、人間は静止することができない。この十秒ずつ十秒ずつ、この一秒ずつ一秒ずつ、われわれは微細に老いているわけです。どんどん腐っていって、ある一線を越えると「屍体」と呼ばれる何かになる。しかし、死体〔ママ〕になっても腐乱し続ける。屍体になっても腐り落ちて動いているわけです。骨になってもだんだん古びて、欠けて、あかちゃけて、削れていく。このように、われわれには「止まっている」ということは不可能なのです。〔中略〕Of course all life is a process of breaking down. スコット・フィッツジェラルドは「いうまでもなく、すべての生とは一つの崩壊の過程である」と言いました。われわれは崩壊の過程を生きているんです。というよりも、この崩壊の過程こそが生なのです。もっと正確に言えば、「崩壊の過程」こそが結果として「生」と「死」の区別を産出し続けている。

114-5)その〔古井由吉との〕話のなかでね、震災から原発事故にかけて、あれだけのことを言葉にするには時間がかかるものだということを話しました。みんな焦って、何か恐ろしい空白を埋めたいかのように、膨大な言葉を費やしましたし、今もしています。それは本当に実って熟して孕まれた言葉なのかというと、極めて怪しい。そして、そういうふうな恐怖と焦慮に急かされて、大量に生み出される言葉とイメージに押し流されてしまって、すっかりみんな、震災に麻痺している。飽きてしまっている。〔中略〕そうして、空疎なイメージと言葉の乱舞と飽和のなかで飽きて、結局は現状追認に陥って……このわれわれの日々のなかで、あの体験を言葉にするために苦難の五年を過ごしている人間がいるということには、想像することさえできないでいるわけでしょう。

118-9)きわめて困難だが、かすかな希望があるとすれば、——臨床的に証明されている希望があるとすれば、トラウマを負っていると自分で気づくことができた人は、他者のトラウマにきわめて寛大になるということです。これは実に難しいこと、らしい、です……。例えば阪神大震災の時、すぐにボランティアに来た人のなかには、戦争体験者が多かったといいます。阪神大震災の被災者は僕の友人にも何人かいるのですが、彼女ら彼らのなかには今回の震災に思い入れをもって行動をしている人がいる。これが、トラウマの連鎖を断つ、本当にかすかな希望です。〔中略〕アドルフ・ヒトラーは第一次大戦に行って、毒ガスで喉をやられてあの声になったんですね。中井〔久生〕氏は、ヒトラーは戦争神経症者ではないかと言うのです。なぜなら彼はユダヤ人を同じ毒ガスで殺したからだ、と。トラウマを負った者は、自覚すれば他者のトラウマに寛大になれるかもしれない。しかし悪くすると、「自分がこんなに傷つけられたんだから誰かを傷つけてもいい」ということにもなるわけです。ですから、そういう悲惨な戦場からの帰還兵というのは多く、幼児虐待をする。そして虐待された世代が、きわめて犯罪率が高かったりする。こうしてトラウマは「遺伝」するわけです。〔中略〕ある傷をつけられることによって主体は主体化する。ということは言えるのですが、当然この「主体となるために傷をつけること」を、本物の戦争とか虐殺とかレイプとか虐待とかと一緒にしてはいけない。心的外傷を与える権利など誰にもないからです。 ※傍点省略

122)アドルノという哲学者が「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と言いました。さらに、アウシュヴィッツ以降、我々の藝術は全て屑だと言ったんですね。われわれも震災があって、原発事故があって、何もできない。無駄なのか。われわれがやっていることは無駄か。意味がないのか。屑か。どうすればいい。そういうことについて考えることが、藝術と無関係なのですか。そもそも「藝術」とは何かということは、他の本で何度も繰り返したから、言いません。断言しますが、関係ないわけがないのです。

135)欲求不満、フラストレーションとは約束を破られるということ、違約ということです。一言で言うと、「話が違うじゃないか」です。

145)フランス語の「倒錯」という言葉の語源は、「曲がっている」というラテン語です。つまり本来の目的があるものを、本来の目的のために使われないこと一般をすべて倒錯と呼ぶと、ロラン・バルトが定義している。

182-3)高校時代の恩師の訃報に接したいとうせいこうは、恩師の思い出を述懐する。その教師は「神秘があると思う者は手をあげなさい」と尋ね、つづいて「何が神秘なのか」と問う。高校時代の氏は「人が出会って、しゃべって、考え方が変わったとします。それは神秘じゃないでしょうか」と答える。恩師は「多分、お前の言うことが最も正しい」と言う。二十一年後、東日本大震災のチャリティ小説として書かれた『Back 2 Back』の、いとうせいこう氏担当の最終章で、それは突如回帰する。「奇跡はあると思うか、と老いた担任教師は突然校舎の角の教室で言ったのだった」。「なあお前たち、奇跡はあると思うか」「奇跡はあると思います」「こうやってしゃべっている僕の言葉を聞いて、誰かの考えが変わったとします」「それが奇跡ではないでしょうか」「うん、俺もお前が正しいと思う」。氏は、小説の最後で、先生こそがあの瞬間考えを変えたのであり、また自分そのものが自分のうわ言をきいて説得され考えを変えたのだ、と語る。

232)佐々木 過ちを犯すということでしかわからない真実を追求するにはフィクションしかない。

234)佐々木 これ〔=『チェルノブイリ——家族の帰る場所』〕を読んで思ったんですけど、今はノマドとか言って、どこでも仕事ができてどこでも生きていけることがかっこいいと皆思ってる。でもそれは嘘だと思うんですよ。本当に重要なのは、「その土地を離れられない人々」「離れたくないのにその土地を離れることを強いられた人々」について真剣に考えることです。前者については、やはりチェルノブイリや福島にとどまり続ける人たちがいるんですね。たとえば、チェルノブイリの避難区域に三百五十人いる。逆に、「離れることを強いられた人々」はまさに「難民」として世界的な問題になっているわけです。外的要因か内的要因か、心の問題かはともかくね、自分ではどうしようもない「何か」に強いられてその土地にい続けたり離れたりする人、そういう人たちのことを考えるのが今一番重要なんじゃないかと思うんですね。
宇多丸 なるほどね。
佐々木 チェルノブイリや福島に住むこと、残ることを選んだ人も、「難民」なんですね。難民になるということは自分の生きていく環境を奪われてしまうことでしょう。この人たちは確実にそれを奪われていますよね。〔中略〕ドゥルーズ=ガタリという哲学者がいるんですけど、彼ら自身は、「ノマドとは動かない人のことだ」と言っている。 ※傍点省略

@S模原


# by no828 | 2018-05-07 22:43 | 人+本=体
2018年 05月 06日

「でも大学なんて行ってたら、今よりももっと祐介と会えなくなるじゃん」。これでお終い。愛情というのはどうしてこんなにも乱暴になれるのだろう?——舞城王太郎『熊の場所』

 舞城王太郎『熊の場所』講談社(講談社文庫)、2006年。71(1138)

 2002年に同社単行本、2004年に同社ノベルス

「でも大学なんて行ってたら、今よりももっと祐介と会えなくなるじゃん」。これでお終い。愛情というのはどうしてこんなにも乱暴になれるのだろう?——舞城王太郎『熊の場所』_c0131823_22262949.jpg

 舞城王太郎は現代の倫理を間接的に提案している気がする。あるいは、舞城王太郎の文章を倫理のひとつの表現として受け止めるのが現代である、というか、現代に生きるわたしである、と言うべきか。

25)父が言っていた。恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない。〔中略〕明日ではもう遅いのだ。今すぐそこに戻らなくてはいけない。でないと、自分の恐怖を消し去ることができなくなるのだ。

46)恐怖とは一体なんだろう。恐怖とは、一体何に対して生じる感情なんだろう。

96)「林君、愛情に一生懸命んなれないんじゃ、生きてる意味ないんじゃなくて?」。うーんどうなんだろう。高校時代なんかの愛情を信じない僕と、留保なしに愛情を追求する梶原と、一体どっちが正しかったんだろう?なんて設問がおかしい。人生には正しいも間違っているもない。物差しは結局のところ自分の価値観しかないのだ。他人の物差しと比べてみたところで、それも自分の価値観を基にしているわけで結局は相対であって絶対ではなくて……ってつまらないことを考えるだけで何もしていない僕の脇で、梶原は、三十五になってもバスケの大好きな長髪のおっさんとさらに何度かやって、大賀には気づかれないまま、挙句の果てに振られてしまった。本当に阿呆だ。

105)僕には信じられなかった。大賀め、何大胆に生きてんだよと思った。つーか本当にびっくりした。女の子と暮らし始めるために学校辞めちゃうなんて選択肢もマジであんのかよ。僕の周りは普通に勉強して普通に進学して普通に就職したり普通に院生になったり普通に資格試験を受けたりしようって奴ばかりだったから、高校二年なんていう学歴以前の段階で社会に出るって行為が本当にこの世にあるんだっていうリアリティを、僕は、大賀のことで初めて感じたのだった。大賀は僕らの、言ってみれば鏡みたいなもんだった。「あっち側の自分」ってところだ。そっちの道を進んでみてどういう風になるのか、僕としてはむちゃくちゃ興味があった。大賀のこれからは、一つの仮定なのだ。だからこそ、僕はこれまでに増してって言うか、これまでになく、大賀のことを熱心に見守ることになった。今とは違う選択をした、もう一人の僕の行方を。

107-9)多神教を取り戻せ、と僕は思う。人は色んなところに神の息吹を感じるだろうが、それを一人の神の御業としてまとめるな。そこに一人一人、神の名前を付けていけばいいんだ。愛の神・悲しみの神・風の神・雲の神・セックスの神・みかんの神・ディズニーランドに来た人間を楽しめる神・浮浪者の包まる段ボールをできるだけ長い間乾かしておく神。何でもいい。色んな神を取り戻して、天界にもあるはずの力の格差をはっきりさせて、神たちを人間のそばにもっと近づけるべきなのだ。そうすれば僕らはもっとちゃんと受け入れられるだろう。人間の社会には善も悪も正解も間違いもはっきりとはないが、ひとつだけ、力の差だけは明快に、疑いようもなく、歴然としてあるのだということを。神の世界にもそれがあるのだから。力?力の差をはっきりと感じるのは、しかしただ唯一、負けたときだけだ。自分が負けたと判るのは?負けたと思った時なのか?自分が負けたと思ったら負けなのか?大賀が何度も何度もそう言ったように?人生はスポーツではない。負けたことが勝つことにはならない。そしてこれは誰でも判っているだろうが、人生ってのは大きな引き分け試合だ。でもそれぞれの局面において、勝ち負けはちゃんとある。って言うか勝ち負けしかない。でも負けたときしか、勝ち負けの判断はうまくできないのだ。

117-8)僕は梶原に大検を受けてみてはどうかと勧めた。世界を広げて色んな人間と会うことでちょっと気持ちが落ち着くんじゃないかと期待したわけだ。大賀も賛成した。「それがいいよ、亜紗子。お前、お父さんとお母さんに博美見てもらってんだから、時間あるじゃん。気分転換にもなるし、勉強したらすぐに大検なんて取れるし、大学にも受かるよきっと。俺はまだ仕事のほうが忙しいからちょっと大学に行ってる暇ないけど、俺の代わりにさ、亜紗子が学を持ってくれよ」。それにそうすれば博美ちゃんに対する嫉妬も紛れるだろう。けど梶原はこう行った。「でも大学なんて行ってたら、今よりももっと祐介と会えなくなるじゃん」。これでお終い。愛情というのはどうしてこんなにも乱暴になれるのだろう?どうして物事をうまくいかせようとすることを、こんな風にむりやり阻んだりするのだろう?僕も大賀も繰り返し梶原を説得したが、梶原の愛情がそれを全て撥ね退けてしまった。理屈ではないのだ。梶原は大賀の愛情の不足感を、どうしても拭えずにいた。こんなの自分のほうがおかしいと思いながらも。どんなに言葉を費やしても。


@S模原


# by no828 | 2018-05-06 22:34 | 人+本=体
2018年 05月 05日

いびつでも何でもいいんだよ。受け止めるという行為は偉大だ。それだけ——森下くるみ『すべては「裸になる」から始まって』

 森下くるみ『すべては「裸になる」から始まって』講談社(講談社文庫)、2008年。70(1137)

 http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062760300

いびつでも何でもいいんだよ。受け止めるという行為は偉大だ。それだけ——森下くるみ『すべては「裸になる」から始まって』_c0131823_22345498.jpg

 永沢光雄『AV女優』以来、本人たちの思いや考えが気になっている。質問されたことに応答する、というインタビューではなく、単著であれば本人の書きたいことがより書かれやすくなっているのではないか。編集者からのアドバイスはあったのかもしれないが。

 AV女優がなぜAV女優になったのか、その遠因を——幸福な家庭などそもそもあるのか、という問いを花村萬月と共有しつつ——幼い頃の家庭の“不幸な事情に求める物語には安易に与したくないが、そのような説明が繰り返し表明されているのも事実である——ということに触れることによって、このような説明様式が言説として強固になる——というのもどうなのか、と思っている。

12)セックスが好きになる、というのは重要です。セックスにおいて何が大事と思うか、というのも。心というのは、また人の心に向かっていくべきで、そんなセックスが出来たら良いのではないでしょうか。……と思えるのに何年もかかりましたが。あたしは、AVの世界の人々の人間味と並々ならぬ情熱に救われました。

49)子どもの頃は、何に期待していただろう。何を望みに生きてただろう。一応、人並みに産まれて、人並みに成長したつもりだった。物心ついてからの思い出といったら、両親のケンカ風景ばかり。酔っ払って家に帰って来た父に背中を蹴っ飛ばされて、布団の上でうずくまったところからあたしの記憶が始まっている。3歳くらい?

55)幼少の頃、「父殺しの計画」を、弟と密かに立てていた。

57-8)「給料、どこに使ったのよ!」「そんなモンねぇ!」と父。聞くと、父は給料日からたった3日のうちに、給料を全部飲み代に使ってしまったのだそうな。30万円前後は稼いでいたはずなんだが。あたしが小学校低学年の頃から、父はたまに東京に出稼ぎに出るようになっていて、長いときは数カ月単位で家を空けることもあった。でも、肝心の仕送りが家に来ない。専業主婦の母に収入などない。そうなるとお金がなく、ご飯もなく、の状態が数日間続く。米すらないときは何も考えずに寝た。寝ればとりあえずお腹がすいているのを忘れるから。起きて学校に行けば、給食がある。そんな日々のなかで、何をどうやって生活していたのかよく思い出せない。

59)今までで一番うれしかったことは? と聞かれたら、迷わずこう答える。「高校2年生のとき、両親が離婚して、父親が家から出て行ったこと」

95-6)「何だか寂しいなぁ」
 どうせ求めているものは愛情という不確定なものだ。その限度を知らない。結局はあたしとて“求めるだけ求めまくる人”であった。
「自分を愛せない人は、人のことも愛せないんだよ」〔中略〕
あたしは順番が逆だと思うなあ。人を愛してから自分を愛すことを知るんじゃない
 すると彼女は「ああ、そうかも」と深く頷き、そのときばかりは真剣な表情を見せた。
くるみちゃん、愛って何だろ
「さあ。そんな大袈裟なことわかんないよ」
 愛だなんて、頼りなげで曖昧な言葉だ。
 でも、難しく考えないでも、あとは人から与えられる愛情を享受できさえすればいいのじゃないかと思う。
 間違いなく、彼女は人から愛されているのだから。

121-2)ああそうさ。あたしの裸の姿を、みんなが共有するよ。けれど、それっていうのはまったく別の世界での出来事だからさ、勝手だけど、折り合いつけて欲しいんだよね。
「辞めてくれないか」って言われたとしても、誰かのために辞める気はないんだ。
「彼氏に反対されて……」
 そう言って辞めていき、彼氏と別れたあとに復帰する女の子は実際多い。

 もちろん仕事がすべてではないし、仕事が中心の生活はしたくないよ。
 AV女優でもあるけど、一人の女性としてのあたしもいて、そこを大事にしないと崩れる。それでもやっぱり受け入れられない部分ってものが、あたしに付着してるのかな。
「仕事なんてイヤイヤやってるよ。早く辞めたい」
 こう返答してたらあなたは安堵したんだろうか。
 一緒に仕事している、監督や、スタッフや、あたしにかかわるすべての人たち、同じくAV女優として働く女の子たちに、心から敬意を払い、尊敬の念を持って仕事をしているからこそ、「仕事が好き」と正直に言ったんだけど。
 考えてみたら確かにね、そこら辺のごくごく普通の女の子、ではないかもしれない。
 いつだか、一緒に飲んでいるときに、酔っ払って甘えるくらいになるとかわいいんだけどね、と言われた。
 じゃあ酔っ払って肩辺りに頭のっけて「えへへ、飲みすぎちゃったあ」なんて素直に言えて、その上明るくかわいく笑えたりもして、そしてあたしがAV女優でなくて、短大生だとか、デパートの店員とかだったなら……。
 あなたと1日でも永く一緒に居られたんだろうか。

161)いびつでも何でもいいんだよ。受け止めるという行為は偉大だ。それだけ。あたしは、自分の感覚と見たものをどこまで信じよう、と思った。歪んでてもいい、というのが許される世界に、たくさん美しいものがあるのだということを。

210)罵声か鉄拳しか食らったことがない。その父に「気をつけて」と言われたのだ。あの父が、子どもにそんな言葉を使うなんて。初めて見た、その父の素直さが信じられないくらいうれしかった。「何だ何だ、あたしちょっと前まで死ぬほど父さんのこと嫌いだったんじゃないのか」なのにこのひと言でどうでもよくなった。「何かもういいや。昔何があったかなんて意味はないんだな。人は変わっていくし、あたしも当全変わっていかなきゃいけない。先のほうにもっと大事なものがある。いつでも断ち切る力は自分にあるし、その意思も自ら掘り起こさなきゃ……」ふいに、そんなことに気づいたのだった。父を許せる日を、あたしは本当は最初から望んでいたのだと思う。

227)最後に『すべては「裸になる」から始まって』に描かれた子供のころの情景、酒飲みの父親とのこと、胸が詰まりました。まったく幸福な家庭なんてナントカハウスといったハウスメーカーのテレビコマーシャルのなかにしか存在しない。なぜ、家庭というものは基本的に不幸を大量に孕んでいるのでしょうか。私は、この作品を読んで、そのことばかりを考えているのです。 ※解説 花村萬月「そろそろ裸にならなくていいよ」


@S模原


# by no828 | 2018-05-05 22:53 | 人+本=体