思索の森と空の群青

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2018年 05月 02日

誰の手下にもならず誰も配下にしない戦いと抵抗と孤独の生——佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を』

 佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を——アナレクタ3』河出書房新社、2011年。67(1134)


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 対談集。飛躍の話、論文の書き方の話、写真にできないこと=写真にしかできないこと、ハイデガーの根拠律、などなどばしばし響く。  
 
18)誰の手下にもならず誰も配下にしない戦いと抵抗と孤独の生

21-2)磯﨑〔憲一郎〕 よく言うんだけど、今その人が不幸せであるということがすなわちその人が不幸せだということを必ずしも意味しない。「終わりよければすべてよし」みたいな考え方があるじゃない? 終わりというのは今ということだけど、それにすごく違和感があるわけ。それと同じように、自分が不幸であることが世界全体の不幸を意味しないということ。そういう違和感がすごくあるんだよね。どうですか?
佐々木 ニーチェは「私と世界」という表現を揶揄して、この「と」というのはもう噴飯ものだ、大笑いだと言ったんですね。つまり「私」は世界の膨大な生成の一部にすぎない。同等であるはずがない。だから、「と」なんて接続詞を使っても、あたかも同等のものであるかのようにこの二つをつなげることなんて出来ないわけです。

28)佐々木 「自分がかけがえのない一人であるということ」、つまりonly-one-nessに執着しすぎている人は精神的に病んでいると言いうる。しかし、「多数のなかの一人にすぎないということ」〔one-of-them-ness〕に振れ過ぎて生きている人も病んではいるのです。

191)ご自身も阪神大震災の被災者である中井久夫さんが、only oneであるという自覚とone of themであるという自覚のバランスこそが精神の健康において重要なのだと仰っています。「かけがえのない一」であるとともに、「多くのなかの一にすぎない」ということです。

41)佐々木 書いて書いて書きまくって、書かされまくって、それを抜けた瞬間に、その作品に突き放されるということがやはりある。作者であることを罷免され、解任される瞬間が訪れるわけです。自分の書いたものを見返して「一体誰が書いたんだ、これは」と目を剥く、という瞬間がないと藝術作品ではない。実は論文だって同じなんです。「たしかに俺はいろいろ読んできたし勉強もしてきたが、こんなものが俺に書けるわけがない。こんなものは俺のなかにある訳がないし、そもそも考えていなかった」と言わざるを得なくなる。自分ではない、自分を越えているものが出てきて、不意に書いたものが異物になる。だから「僕は直したいけど小説が拒む」ということになるわけですね。〔中略〕
磯﨑 そのとき〔横尾忠則と羽生善治と磯﨑が〕言っていたのは、絵にしても将棋にしても小説にしても、自分があらかじめ持っているものが出てる間はまだ大したことはない。そこは共通しているんですよ。やっぱりその局面や流れの中で「なんで自分はこんなものを描いたんだろう」とか「なんでこんな手を指したんだろう」というのが出てきたときこそが凄いという意味では共通していましたね。だから他動性というか受身なんですよね。〔中略〕
佐々木 〔中略〕基本的にあらかじめ設計図やプログラムを緻密に決めておいて、自分ではない人が書いたとしか思えない一行が不意に出現するとか、絶対に自分が弾けるはずのないフレーズが弾けたとか、そういう偶然性や飛躍を排除することが完成度が高い創作をすることだと思われている。でもそれは不正確な認識です。ジャズが一番わかりやすいんだけど、鍛錬の末に突如そういう飛躍の瞬間がないと藝術とは呼べない。鍛錬を重ねてきたのに、ここぞという時にそれを全部吹っ飛ばして次の一手を指せる、書ける人というのはやっぱり強いんです。 ※傍点省略

46)「現実がこうである以上、こうするしかない」という言説は、結局、人を苦しめ搾取や暴力を生み出すだけです。人間は「なぜ」と問う生物です。「どうやって」だけでは人間ではない。二大政党制がいい——なぜ? 沖縄には米軍基地が必要だ——なぜ? この「なぜ」という真摯な問いが今何よりも欠けています。政治の核心は「論証」です。「なぜ」に応えて理由や根拠を示すことです。それを見失えば政治は死ぬ。しかし今の政治家はこれを忘れ果てて、我々も「なぜ」という声をあげることがやましいことであるかのように思い込まされています。

57)佐々木 そもそもこの世界がセックスに過剰な意味を見出すようになったのはたかだか十八世紀末からにすぎない。〔中略〕帽子の選択と性の選択、後者にだけ過剰に意味づけを行い、そしてその人の「本質」とする。これがある種の近代の病だとフーコーが言っている。実はいがみ合っていると思われていたラカンも同じことを言っているんですね。

63)佐々木 近代という時代は一人で、可能なら一冊に「世界」を封じ込めたいという奇妙な欲望に取り憑かれた時代なんですね。ヘーゲルからマラルメから……ずっとね。

67-8)円城〔塔〕 論文の書き方って定まるのが遅いんですよね。僕は物理系や数学系しかわからないけれど、数学の論文の書き方は二十世紀初頭くらいにがらっと変わっちゃって、それまでは思いついた順に書けばよかったんです。「こう思った」「こう思った」「こう思った」「こんなふうになりました」「終わり」とできたんです。
佐々木 ファンキーですね。
円城 二十世紀半ばくらいから、一旦全部自分で考え終えてから、それを全部要素に分解して、前提があり推論があり、結論へ辿り着くというように書くという流儀が主流になるんですね。読んでる方にすると順番が逆に見える。何故それを証明しようと思ったかとかが見えにくくなる。必要最低限の要素だけから始まって、気持ちとかはなしに最後に結論に辿り着く。そうなると註の発生はその頃かなと思うんです。発想の順に書いていければそんな註は要らないですからね。俺はこの定理を証明する、何故なら俺は真理と知っているから、という思い込みからの始まりはなくなって、シンプルに、前提を置いたらほらできた、終わり、となる。

80)佐々木 文字や言葉に関するある種の異物感みたいなものが大事なんです。するする書けば書けてしまうのではなくて、自分が書いているはずの文章それ自体に生々しく痛痒い異物感を感じるというのが、実は文章を書く上でものすごく大事だし、翻訳ではそれを沁みるように感じざるを得ない。それが書くことへの取っ掛かりになっているんじゃないかと思います。

113-4)安藤〔礼二〕 おそらく、書けない、もしくは書かない期間というのが必要だと思うのです。書物とは、そうした時間の経過がなければ、決してかたちにならない。
佐々木 作家の保坂和志さんがこう仰っていて。早くデビューした作家は本当に苦労するんだ、絶対にスランプが来て書けなくなるんだから、と。これは本人から聞いたんじゃないけど、すごく若くしてデビューして賞も貰った人が苦慮しているのを、どうやら彼はずっと心配して遠くから見ていたことがあるらしい。逆に、デビューが遅かった人というのは、それはそれで苦労は苦労だけど、ある意味「デビュー以前」が「スランプ」なんだ、と。もう一回目の重いスランプを抜け出ているんだ、と。面白い話だな、と思います。

118-21)法がない社会というのは存在しません。そして、法は「してはいけないこと」を定めます。しかし、「何をして生きていけばいいか」は教えてくれない。そこまで立ち入ったら、法は法でなくなります。もちろん、最終的には法がその「法ではないもの」、たとえば道徳とか倫理とかと呼ばれるものと本当に区別がつくのか、つくとしたらどう区別がつくのかについては、さまざまな議論がある。〔中略〕一体どう生きたらいいのか、というのは、誰も教えてくれません。逆に言えば、「どう生きたらいいのか」ということを教えてくれるのは「説教」のたぐいで、どちらにしろ胡散臭さは免れない。しかし、その「どう生きたらいいのか」を引き受ける何かが、キリスト教では魂の導きを行う「司牧」と呼ばれる何かだったんですね。フーコーは「統治性」という言葉を使って、この「司牧権力」の後継こそが一六世紀に出現した「統治性」だと言いました。〔中略〕他人の魂を導く、ということがどういうことを孕んでいるか。ここに精神分析の眼目があります。〔中略〕ある意味で精神分析は〔『カラマーゾフの兄弟』の〕大審問官の学であると言える。どういうことか。つまり、「司牧」の、「羊飼いの権力」の後継として、人の世の汚辱を背負う学であるということです。告白というものの厭らしさ、ということを今言いました。しかし、実はこれは「告白される立場」「告解される立場」から考えると非常な苦難だということがわかります。〔中略〕皆さんは「神は汝を赦されるであろう」と言うしかない。それしか許されていない。「この野郎、地獄に落ちろ」と思っても、最終的にはそれは言ってはいけない。いかに自分が戦場で老人や子供を次々と殺してきたか、女性を慰みものにしてきたかを延々と喋られて、ぶん殴ってやりたいと思っても宥さなくてはならないのですよ。悪夢でしょう。醒めない悪夢のようなものです。そしてその男は大変すっきりした顔をして帰っていく。〔中略〕しかも、この告白された内容は誰にも言ってはいけない。自分の上司である司教とか大司教とかにも話してはならない。確かローマ教皇の直接命令が下ってもその秘密は絶対に誰にも言ってはいけないのではなかったか。全部この汚濁を飲み込んで墓まで持っていかなくてはならないわけですね。この辺は、近代の心理カウンセリングは甘いです。〔中略〕キリスト教徒の僧侶たちは長きにわたって耐えてきたわけですよ。連中は。こう考えるとそうそう馬鹿にしていいものではない。また、そんなに悪虐非道な奴を赦さなければならないとしたら、一体どうやって赦せばいいのかということになります。これはあらゆる宗教の大問題です。

132)佐々木 僕は前々から「宗教」という言葉でものを考えるのはやめようと言っているんです。宗教であるか宗教でないかは一切問題ではない。そもそもブッダもムハンマドもイエス・キリストも宗教という言葉の語源である「レリーギオ」(religio)〔と〕いうラテン語を知らない。知りようがない。だから、彼らは自分たちがやったことを宗教だなんて思っていたわけがないんです。

144-5)安藤 まったく新しいものなんて決して存在しないわけですよ。だから、古いテクストを、もっと自分なりの仕方で読み直さなければならない。もう一つ。『夜戦と永遠』と『切りとれ、あの祈る手を』の最も重要なポイントは何かというと、それは「解釈」という概念を、これ以上はない新鮮さで提出したことに尽きると思います。解釈は単に意味を復元するのではなくて、古いものから新しいものを生み出す。それこそが「解釈」なんですね。解釈という行為が、何かを書いたり、新たなものを生み出す際の基本だと思います。そうした解釈の積み重なりを書物というかたちでわれわれは考えている。だから書物って絶対に古びないと思うのね。テクストを読み込むこと、そして書き直すこと、それが続く限り、つまり政治や経済などが学問としては滅びても、宗教や文学は滅びない。宗教や文学の何が滅びないかというと、読み、そして理解して、解釈して、新たなもの〔を〕書き写す。そういった一連の行為です。解釈の循環は絶対に滅びない。解釈が滅びない限り、書物というものも決して滅びない。そうしたヴィジョンを述べることは反時代的でも何でもない。未来に向けての大きな提言だと思います。
佐々木 まさに「未来の文献学者」を名乗ったフリードリヒ・ニーチェが言う如く、「この時代に逆らって、来たるべき時代のために」ですね。未来を生み出そうと思ったら、「この時代に逆らう」「文献学者」たらねばならないのだから、反動的で古色蒼然と誹謗されることを恐れてはならない。

152)佐藤〔江梨子〕 文体ってどうやって作られていくものなんですか。
佐々木 自分をそのまま出してもいいものにはならないんだよね。藝事は何でもそうだけど、鍛錬を反復して自分を殺すところまで行って初めて出てくる自分が本物の自分。自分を手放す瞬間、自分がなくなる瞬間まで行かないと、その人固有のものは出てこない。そこまで行っていない本ってつまんない。より深く手放したほうが、より深く自分を取り出せる。

168)佐々木 写真の限界、写真にはできないことをあらわにしているのに、その限界をあらわにすることによって、写真にしか絶対にできないことをあらわしている。これは凄いことだと思うんです。

188-9)円城〔塔〕さんが「今陰謀があるとしたら、分かっているものを隠す陰謀ではなく、分かっていないものを把握していると言い張る種類のものであるはず」と、極めて明敏に語っているんですね。とても感銘を受けました。なぜか。東電だろうと政府だろうと、事態の全貌を把握しているつもりで、実は誰も判っている人など居ないのではないか、実際に事態の全体像を把握している人間などいないのではないか、ということがまず一つあります。しかし、それ以上のことがある。つまり、こうした原発事故の状況や情報を「隠蔽」したり「秘匿」したりする人は、そうすることによって「自分が一体何をやっているのか」が判っていないのです。一番大事なことが判っていない、把握できていない。自分だけが判っていて、パニックなり何なりを防ぐために情報を止める、と。しかし、その判断の根拠は一体何でしょう。自分が一体何をやっていて、どういう帰結を招くのか、どのような禍根を未来の人類に残すのか、彼は本当に「判っている」のでしょうか。判っていない。判っていないのに判っている、すべて把握していると思い込んでいるからこそ、そんな真似ができるわけです。こういうときに警戒しなければいけないのは「俺は何でもわかってる」と騒ぐ人です。

195)すべてのものには根拠がある、はず、です。しかしハイデガーはきわめて明快に、「すべてのものには根拠があり、原因があり、理由があるはずだ」という命題自体には根拠はない、と言うんですね。根拠があるはずだという根拠律自体には根拠はない、と ※傍点省略

215)新しい道徳を打ち立てるためには、道徳には根拠がないということをまず直視しなくてはならない。〔坂口安吾は〕それを指して堕落と言っている。

242)われわれは恥辱を感じなくなっている。麻痺してしまっている。それはこういう意味です。男女平等なく、民衆の統治もなく、完全な言論の自由もない。そういう国なんだ、ここは。これは純然たる恥辱であり、われわれは恥辱の情動こそを鍛えなくてはならない。

@S模原

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# by no828 | 2018-05-02 23:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 05月 01日

自分が本当に興味のもてることをこつこつと掘り下げることさ。自分の心のなかに自分のための大学を持つことだ——井上ひさし『偽原始人』

 井上ひさし『偽原始人』新潮社(新潮文庫)、1979年。66(1133)

 単行本は1976年に朝日新聞社

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 宿題を出さない担任の先生は好き、その先生を悪く言う親も塾も家庭教師も嫌いな小学生3人組の冒険。

 教育とは、学習とは、勉強とは、というメッセージはシンプルである。ただ、その先生が保護者からの“攻撃”によってどうなるか、という展開は、この現在において読むからこそ、かもしれないが、かなり深刻である。

 また、宿題を出す/出さないというのはこの現在においてもまだ論点のままである。教師の仕事は授業時間内に子どもの理解を深めたりその思考を刺激したりすることだ、とすれば、宿題を出すということは教師がそうしたことをできていないことの証左だ、とも言いうる。また、宿題を通して学校の外に——狭義の意味での、つまり学校的な——学習の機会を拡張すると、家庭の状況によってそれを活用できる子ども/できない子どもが生まれ、むしろ子どもの学習機会を不平等にする、という議論もある。

 擁護すべきは教育概念か学習概念か、ということも改めて考えさせられた。

30)「子どもに勉強してもらいたいのが親のねがい、その親のねがいを踏みにじるなんてひどい先生だわ。だいたい、宿題を出さないですますなんて、教師としてすこし怠慢じゃないかしら

80)「でもみなさんとウガンダの高原の少年と、どっちが人間として強いか、賢いか、を考えると、先生はわからなくなってしまう。だって、ウガンダの高原の少年たちは仲間と協力しあって、槍で野象や野牛をしとめることができるのよ。どこかの草原に、あなたたちとウガンダ高原の少年たちが、取りのこされるとするでしょ。そのときあなたたちの頭の中には中学受験用の知識しかつまっていない。ウガンダ高原の少年たちの頭の中には、仲間とどうすれば協力し合うことができるか、どうすれば生きて行くことができるか、という智恵がいっぱいつまっている。さあ、そうなるとどっちが強く、賢く生きつづけることができるか、それはもうはっきりしてるでしょ。それにウガンダの高原の少年たちは、ぎゃくに東京のような大都会ででも、なんとかやっていけると思うの。先生のいっていることはすこし極端かもしれないけど、とにかくぺらぺらした知識をいくらつめこんでも仕方がないんじゃないかしら。大切なのは真の知能。にせものの知能なんかどぶのなかにポイしちゃいなさいよ

96)「あなたはおかあさんのロボットでいいのよ。こんなことをいうと、あなた、おかあさんを憎らしいだなんて思うかもしれないけれど、大きくなったら、たぶんおかあさんに感謝するはずだわ。いまの世の中では、中学の、高校の、そして大学の入学試験に受かるかどうかで、人間の運不運が決ることが多いの。そういう世の中なのだから、ごちゃごちゃいってもはじまらない。それよりも早くロボットになった方が勝ち。わかるでしょ」

107-8)「日本の親たちのあいだには、どうやら学校信仰という新興宗教がはびこっているようだね〔中略〕わが子をまだ東大や有力国立大や有名私立大に入れていない親たちは、この『将来性』というお札、あるいはお守りを手に入れるために、有名高校や有力中学へ入れと子どもの尻を叩く。しかしだね、諸君、学校や企業に、はたして将来性などというものがあるだろうか。ありませんね。〔中略〕将来性のあるなしはいつにかかって本人次第なのさ。ひとりの人間が、自分の肌にぴったりとなじむ仕事を見つける、これこそ教育の仕事なのだが、そして、その見つけた仕事に全力を傾ける、そのときはじめて将来性というものが生れてくるんですよ。そこを日本のばか親たちはかんちがいしている。いい学校に入ればわが子の未来は前途洋々などと愚かなことを考えている。子どもは救われませんよ」

236)「世の中でいちばん大切なものは自分である。しかし、仲間のA君もB君もC君もそれぞれ『世の中でいちばん大切なものは自分である』と考えている。自分が大切だと思うこの気持をどうおさえれば、他人と上手に協力して行くことができるのか。自分を貫きながら他人と協調しあうこと、その智恵、それを遊びを通して体得するのが子どもの仕事でしょう。遊びという『聖なる仕事』をしながら、自分と他人のことを考えて行く、これは漢字を五千や一万暗記するよりはるかに尊い仕事ではないかと思うんです。子どもはそうやって人間になって行くんだ。ところが、受験勉強というのは他人のことを一切考えない。極論しますとね、人間になることを子どもに拒否させようというおそろしい仕事です

372)「ねえ、きみたち、キリストは東京大学を出ているかね。おしゃかさまは京都大学を受験しただろうか。またマホメットは早稲田大学の卒業証書を持っているか。あるいは聖徳太子のかぶっているのは慶応大学の制帽だろうか。そしてまた、織田信長は名古屋大学の同窓生だろうか。そんなことはない。これらの大人物たちは大学へは行かなかった。ただ、自分の心のなかにそれぞれの大学を持ち、自分の大学で懸命に学んだのだ。だからこそ、大きな仕事ができたのだよ〔中略〕そういうわけだから、受験勉強をするひまに、自分が本当に興味のもてることをこつこつと掘り下げることさ。自分の心のなかに自分のための大学を持つことだ

@S模原

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# by no828 | 2018-05-01 22:17 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 04月 24日

柿緒が何を聞きたかったかが問題なんじゃない。柿緒に何を言うべきだったかが問題なんじゃない。僕が柿緒に何を言いたかったのかが問題なのだ——舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』講談社、2004年。65(1132)


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 2篇収録。それぞれ異なる書体と用紙が使われている。凝った本作り。

 舞城王太郎はぶっとんでいる。それを正論として受け取ってよいのかそうではないのか、わからない。それもねらいかもしれない。

「祈り」とは何かと考えさせられた。教育は祈りなのか。この本からすれば、それは祈りだとは言い切れない。しかし、祈りではないとも言い切れない。祈りの文学、あるいは文学の祈り。よい本だと思う。

7-9)愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんてもちろん僕は構わない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いにとても大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。一人一人、知り合えばさらに、個別に愛することができる。僕たちはたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。祈りはそのまま、愛なのだ。
 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願い。希望を持つ。
 祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

46)当たり前だけど、誰かを好きになるときには条件も留保も約束もなしにとことん好きになった方が気持ちいいのだ。

49-50)そうか、そういうふうに読めるのか、と思った。でもいやそんなふうなつもりで書いたんじゃない、と僕は断言できなかった。僕は自分の書いた小説について、どのような断言もできない。

51)「うん、まあそうだね」と僕は言いながら、あのとき賞太に言った台詞は僕の本心から出たものだったか、それとも賞太の聞きたい台詞を言ってやっただけなのかどちらだったのかを考えている。

52)無意識から出る言葉が必ずしも本音で、意識から出る言葉は必ず装飾されてるってわけじゃなくて、無意識は意識にも無意識にも両方に働きかけるんだろうし、だとすれば無意識によって無意識が装飾されてしまうことも多々あるだろう。人間の本音なんていくつもあるのだ。どれか一つじゃない。人間の無意識も複数あって、それがせめぎあってるに違いない。

53)「ごめんとか言ってほしいんじゃないの。なんですぐ謝んだよ。何も悪いことしてないっしょあんた」
「だって……」
俺がちょっと怒ったっぽいからだろ。だから俺の顔色見ながら謝られてもしょうがないし。それ反省生まねーじゃん、今度は俺怒らせないでおこうってだけでしょ、そっから出てくるの、そんなのいらねーって」〔中略〕
分かってるよ。だから怒んないでよ。怒られると、怖くてうまく考えられなくなるんだもん

37-43)祈ることに何の意味があるんだろう?僕達は祈ることで救われてたりするんだろうか?気が楽になったりしてるんだろうか?何かを解決したり、発見できたり、その手触りを感じられたりするんだろうか?まさか。祈るという一瞬の行為に僕達は救いも不安の解消も、問題の解決も、何も期待などできない。祈りはあくまでも膝をついたり手を合わせたり頭をうつむかせたりして願いを言う、思う、その刹那だけに始まって終わる。それ以上何もしないし何も思わない。ただひたすらに欲しいものを欲しいと言うことが祈りだ。欲しいものが与えられたらこうするこうしない、与えられなかったらこうするこうしないという考えはない。柿緒の父親は四月から七月まで毎晩近くの神社に通ってお百度参りをしたけれど、そのとき柿緒の父親はただひたすら娘の身体を侵食する癌がどこかに行って欲しいと願っただけで、境内の砂利を毎晩百粒移動させたことがその役に立つはずだなどと考えていたわけではないだろう。「願掛け」は人の祈りに対する集中力を持続させることに役立ち、祈りの時間を延長させる。それだけだ。お百度参りに頑張ったから、その引き換えに神様仏様とどうこうってことじゃない。祈ることとは何かを欲しい欲しいと言うことだけど、でも同時に無欲な行為だ。だから祈りが届かなくても、誰も悔しがらない。願いが叶わなくても、誰もクソ祈っただけ無駄だとは思わない。柿緒の父親も柿緒がとうとう最期の一息をついたとき、悲しみこそすれ、自分の祈りが何の効果もなかったことなど微塵も顧みなかった。誰でも知ってるのだ。祈りには何の効果もない。祈りとは、ただ、何かを求めていると、それをくれるわけではない誰かに、あるいは誰でもないものに、訴えかける行為なのだ。欲しいという気持ちを、くれる相手じゃない者に向かって言葉にすることに、どんな意味があるんだろう?気持ちを言葉にすることには絶対的に揺るがない、永劫の価値でもあるんだろうか?〔中略〕くそ、僕はバカだ。僕は他の人がうっかり言い忘れそうな言葉はちゃんと柿緒に言っておいたつもりだったけど、ただ一言、言い忘れてしまった。〔中略〕たった一言、「死なないでくれ」と言うのを忘れた。ああ!クソ!僕は本当にバカだ!〔中略〕僕は本当に柿緒に死なないでくれと泣いてすがりたかったんだ。病気のまんまでもいい、辛い思いが続いてもいい、痛くて苦しくて泣いたり喚いたりひど有り様でも何でもいいから、そんなの我慢して生き続けてほしいと、自分勝手なことを頼みたかったんだ。でも柿緒にそんなこと言っても、癌を抱えてどうしようもないだろうと、僕は遠慮してしまった。アホですよ。ホント。〔中略〕柿緒が何を聞きたかったかが問題なんじゃない。柿緒に何を言うべきだったかが問題なんじゃない。僕が柿緒に何を言いたかったのかが問題なのだ。〔中略〕僕は本当に、柿緒にすがりついて、「死なないで欲しい」「死なれると困る」と、無駄でも言うべきだったのだ。無駄と知りながらも言うべき言葉は祈りだ。〔中略〕僕は僕の言いたい言葉を言うべきだったのだ。「まだ早すぎるよちくしょう!もっと一緒にいろよこんにゃろう!死んじゃ駄目だろこの大バカ大バカ!」僕は柿緒のことが大好きだった。愛していた。でも大好きだ、愛しているということよりも、最期には、死んでほしくないということを伝えたかった。死んで欲しくない、死なれるのは嫌だという言葉の中に、大好きだ、愛してるという気持ちは十分に入ってる。ワーンと泣いて嫌だ嫌だと駄々をこねるみっともない姿の中に、僕の愛情はこめられたはずだ。

@S模原

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# by no828 | 2018-04-24 22:47 | 人+本=体 | Comments(0)