思索の森と空の群青

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タグ:京極夏彦 ( 18 ) タグの人気記事


2018年 03月 16日

あなたの知見は、それを求めている者にこそ与えられるべきものです。大衆に理解出来るように書けば良いというだけです。それだけでいい——京極夏彦『文庫版 書楼弔堂 破曉』

 京極夏彦『文庫版 書楼弔堂 破曉』集英社(集英社文庫)、2016年。49(1116)

 単行本は2013年に同社

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 新しい京極堂シリーズとも呼べるかもしれない。井上圓了ほか、歴史上の実在の人物が登場する。事実を挿入しなかったほうが好み。好きだけど。やや脚色が過ぎたか。好きだけど。

16) 「また、最近の本は重いですからねえ。それに、時に横浜だのまで行くんですわ。横浜は歩いちゃ行けませんけど、それだって、汽車賃は本の値段に乗せられませんからねえ。損です」
「上乗せすればいいじゃないか。手間賃という奴だ」
「いやいや、あっちで十銭、こっちで十銭い五厘じゃあ如何にもいけないでしょう。新聞だの手習いだのは、全国何処でも同じ値段で売ってるじゃあないですか。本だけそうはいかないってのはねえ。お客にしてみりゃ間尺に合わないって話で
「そうだがなあ。まあ、だから組合も出来たんだろうし、変わるだろこれから」

27) 「何ごとも、目的に一直線と云うのは味気ないものさ。彼方に振れ此方に揺れて、時に横道に逸れ、思いも寄らぬ処に出る。そうしたことから知見が広がる。何かと発見もあるものだよ。まあ昨今は合理だの利便だのと盛んに云うが、僕は余り気を引かれないのだよ。世に無駄はないさ
「あら〔中略〕手前の主人も同じことを申しますので。世に無駄はない、世を無駄にする者がいるだけだと——

37) 「うちはご覧の通りの本屋です」
「はあ」
本の中身を売っているのではなく、本を売っております
「それはまあ、そうでしょう」
知見が欲しいのであれば、借りて読もうが立ち読みをしようが同じことです。一読理解しさえすれば、それで済みます。でも、本はいんふぉるめーしょんではないのですよ
 本は墓のようなものですと主は云った。
「墓——ですか」

40)「私と云う言葉は、私そのものではありません。あなたと云う言葉も、あなたそのものではない。言葉は現世に対応してあるけれども、現世そのものではない。机と云う言葉とこの机は」
 何の関係もないですと主は云った。

41)「言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます

43) 「書き記してあるいんふぉるめーしょんにだけ価値があると思うなら、本など要りはしないのです。墓は石塊、その下に埋けられているのは骨片。そんなものに意味も価値もございますまい。石塊や骨片に何かを見出すのは、墓に参る人なのでございます。本も同じです。本は内容に価値があるのではございません。読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる——そちらの方に価値があるのでございます
「中身ではない、と云うことですかな」
同じ本を読まれても、人に依って立ち上がるものは異なりましょう。どれだけ無価値な内容が書き連ねられていたとて、百人千人が無用と断じたとて、ただ一人の中に価値ある何かが生まれたならば、その本は無価値ではございますまい

44-6) 「文字も言葉も、まやかしでございますよ。そこに現世はありませぬ。虚も実もございませぬ。書物と申しますものは、それを記した人の生み出した、まやかしの現世、現世の屍なのでございますよ〔中略〕しかし、読む人がいるならばその屍は蘇りましょう。文字と云う呪符を読み、言葉と云う呪文を誦むことで、読んだ人の裡に、読んだ人だけの現世が、幽霊として立ち上がるのでございますよ。正に、眼前に現れましょうよ。それが——本でございまするな
 だから買う人が居ると亭主は云った。
「だから、と申しますと」
本から立ち上がる現世は、この、真実の現世ではございません。その人だけの現世でございますよ。だから人は、自分だけのもう一つの世界をば、懐に入れたくなる
 気持ちは解る。
「再読、三読するためでしょうか」
「勿論、読む度にそれは立ち上がりましょうなあ。読む度に違ったものが見えるやもしれません。しかし、私が思うに、一度読んだのならば、もう読む必要はない——のかもしれませんな
「そう——ですか」
読まずとも観るだけで、観ずとも所有しているだけで、その世界は持ち主のものでございましょうから〔中略〕勿論、必ず所有しなければならぬと云う訳ではございません。〔中略〕要は心掛けでございますから、参れずとも祈らずとも供養がなるよう、想うだけでも通じるものではございましょう。でも〔中略〕自分の大切な人の位牌くらいは持っていたいものではございませぬかな

171) 「修行は目的のための手段ではなく、手段である修行こそが目的と云う意味でございます
「しかし歩き続ければ何処かに到着はするでしょう。それとも何処かにも着かないと云うのですか」
「着きますまい。辿り着いたような気になることはあるでしょうが、それはまやかしでございます。禅ではそれを魔境と申します。そこに留まれば、身を滅ぼす。ただ歩き続けるしかないのです。進みが遅かろうと、障害が立ち塞がろうと、迷おうと、歩くことこそが仏道の修行です」
 文学の道も同じでございましょうやと若い書生は問うた。
私の場合は、書くよりない——と云うことになりましょうか
ええ。踏み込んでしまえばもう戻れない。歩き続けるよりない

213) 「信ずるものが正しいと云うのじゃあいかんのだよ高遠君。正しいものを信じなければいかんのだ。だから、何が正しいのか常に疑い考え見極める姿勢が肝要になるのだ。自由も民権も正しいが、必ず自由民権運動の凡てが正義であったと云う訳ではないだろう。その、疑い考え見極めることが哲学である

232) 「そんなもんが実際にあって堪るかと云う。まあ——ねえわな。じゃあねえのかと云うとな、ねえけども、あるんだと云う。何だよそりゃ。巫山戯た物言いじゃねえか。だが、そこんとこを理解しなくっちゃあ本来の信心なんざ出来ねえんだそうだ。信心ってなあ信じる心じゃあねえ、心を信じることだと云うのだな。ただ無闇に信じ込むだけなら、それはただの盲信だ、迷信だと云う。真の信心をするためには理を知れとほざく。理を知り迷妄を棄却するためには哲学が要ると、まあこう云う理屈だな
「なる程」
 主は感心したように云った。

236) 「日本を主とし、異国を客とする——ですか」〔中略〕
「〔中略〕自国の悪しき処は正し、他国の善き処は学ぶ。正すも学ぶも主体あってこそだな。その主体がねえから、何が正しく何が正しくないのか判らねえ

257) 「いずれにしろ悪事を働かなくなるならそれで良いだろう——と、そう云う問題ではないのです。悪事には悪事と断ぜられるだけの理由がある。それが何故に悪事とされるのか、悪とは何なのかを知ってさえいれば善悪は自ずと知れる筈です。そして、悪が何故悪たるのかを知っているのであれば、それが禁止されなければならぬ理由をきちんと理解し、その上で判断するのなら——自ずと悪事を働くこともなくなるでしょう。それが正しき在り方です
 威してさせぬと云うのは子供扱いですよと圓了は云った。

268-9) 「この楼にある本は、どれも私に喜びを与えてくれました。しかし、書いた者は私なんぞを喜ばせようと思って書いた訳ではないでしょう。私が勝手に喜んだのです。本とはそう云うものです
「だが——」
あなたの知見は、それを求めている者にこそ与えられるべきものです。大衆に迎合する必要など全くないのです。志を曲げる必要もない。出来ぬことを無理してすることもない。ただ、大衆に理解出来るように書けば良いというだけです。それだけでいい。そう云う本をお出しになれば、その本は売れます。売れれば売れただけ圓了様の知見は世に広まる。そして圓了様の知見は——」
 金銭を生みますと、弔堂は云った。

323) 「死んで通す筋も、殺して通す筋も、ないですよ。いやいや、あっちゃいかん。それじゃあ筋は通りませんわ。それで通るような筋は、間違った筋じゃち思う。人は生きてこそです。生きて、苦労して通して、それで通るなら、それは正しい筋だ。違いますかのう」
 違いませんと弔堂は云った。

419)ええ死んでおりますと主人は云う。だからこそ、この店は弔堂と云うのである。
読まれなければ死んでいる。この楼はただの目録に過ぎないのです

463) 「主は他人の薦めたもんを有り難がるようじゃあいかんのだ、とも申しますよ。そもそも、手前の主は探書のお手伝いは致しますけれども、良い本だからと云って人様に押し付けるような真似は一切致しませんのです。良い悪いは人それぞれ。ご本と申しますのは、ご自分で欲し、ご自分で探して見付けるが筋。それできちんとお読みになれば、これは絶対に無駄にはならぬものと——主はそう云うことを申しますよ」

516) 「ないものをあるように見せ掛けるのが言葉でございましょうよ
見せ掛ける——のですか
「そうです。ですから、凡ての言葉は呪文。凡ての文字は呪符。凡ての書物は経典であり祝詞でございますよ。作法と云うのは、普く所作で表す言語でございましょうし、式と云うのは原理原則を言語化したものでございます。決して摩訶不思議なものではございません」 ※傍点省略


@S模原

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by no828 | 2018-03-16 23:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 23日

どうせ駄目になる予感に苛まれ続ける日常なんて、我慢出来る訳がない。幸せというのは希望のある日常のことなんじゃないのだろうか——京極夏彦『冥談』

 京極夏彦『冥談』メディアファクトリー、2010年。32(1099)


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 なぜないものがあるのかについての短篇集。各ページの番号や章タイトルの組み方にもこだわりが見られる。

136)「西欧の影響なのか、心霊学などと云うものもぼちぼち出て来ているようだが、要するに霊魂、実体のない遺恨のようなものが人の形をとって現れるのだね。まあ、創り話としては面白いけれども、実際に居るの居ないのと云う話になると戴けないね。その点に関してのみ云うならば井上〔円了〕博士のように否定したくなる〔中略〕霊魂だのを持ち出してしまうと、肝心要の、怖がっている者の精神活動が摑み難くなってしまうように思うのだよ。怖がらせるための怪談噺は大いに好むところだが、何故畏れるかを探る時に幽霊なんて薄っぺらなものは要りませんよ」 ※「遠野物語より」

184-5)決着なんか付く訳がないんだ。そもそも理由がない。こんな大騒ぎになったのだから何か喧嘩の契機〔きっかけ〕があったことは間違いないのだけれど、それは契機であって原因ではない。原因はもっと根深くてどろどろしていて、多分私の人としての奥深い処に沈んでいる悪念みたいなものと絡まり合っていて、アイツの上ッ面のその下の、何だかメソメソしたゲル状の根性なんかにも根付いていると思うから、五分や十分でスッキリ解決する訳がないのだ。私は間違いなく、その堂堂巡りの出口ナシに嫌気が差して、と、いうより解答のない無駄な押し問答に疲弊してしまって、放り出して逃げたんだろう。ぐじぐじぐじぐじするのは厭だ。ハイ別れましょう——それ以外に効果的かつ完璧な結論はない。そんなことはもう考えるまでもないことで、それはお互いに百年も前から判っていることなのだし。それなのに、アイツはその唯一の解決策だけを回避する。こっちが引っ張り出しても無視したり逸らしたり捩じ曲げたりする。いつだって有耶無耶にしてまあいいかという感じで終わらせようとする。そのうちこっちも、疲れてしまう。疲れて、まあいいかと思ってしまう。そんなのはもう厭だ。いつもいつもいつもいつだってそうなんだ。どろどろの泥濘にブルーシートを被せて、その上でお弁当を食べてるような、そんな暮らしはもう厭なんだ。うじうじうじうじ、好きだとかアイしてるとか、そうなら何でも赦されるというのか。それは、私にだって未練とか想い出とか色色あるから、そうスキッと割り切れないのは確かだし、どろどろは目にしなければ気にならない、触らなければ害もないという言い分も解らないではないけれど、見えなくたって触らなくたって、そこにあるんだということが知れてしまったら、もう駄目だと思う。予感がする。どうせ駄目になる予感に苛まれ続ける日常なんて、我慢出来る訳がない。幸せというのは希望のある日常のことなんじゃないのだろうか。そんな腐った毎日は所詮まやかしじゃないか。考えているとまた肚が立ってくる。 ※「空き地のおんな」

267)実話というのは、ほんとうのことじゃないんです。ほんとうのことの話なんです。ほんとうのことなんて、みんな過ぎてしまえば消えてなくなりますよ。今は、次次に、みるみる死んで行くんですよ。だから、お話は、ほんとうのことの幽霊です。お話になることで、僕らは過ぎた昔、死んだ時間の幽霊に会えるんです。僕は、おじさんに会いましたよ。たった今。背の高い、立派な、先輩の大好きなおじさんに。 ※「先輩の話」


@S模原

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by no828 | 2018-02-23 23:03 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 15日

猫が鼠より強ェな解る。だけどもよ、猫が鼠より偉ェってこたあねェぞ——京極夏彦『前巷説百物語』

 京極夏彦『前巷説百物語』角川書店(角川文庫)、2009年。24(1091)


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 二進も三進も行かなくなるとはこういう状況のことを言う。又市の若かりし頃。又市の思想形成の原点。

「前巷説」は「さきのこうせつ」。


108)「人の真実は、その人の中にしかないのです。外の巷は夢。この世は全て、幻のようなものです。ならば——お葉さんはこれからもずっと、その己の中の現をこそ生き続けるべき——なのではありませんか」
「所詮この世は夢幻——かい」
「はい。私どもは、その巷の夢——巷説を作ることで、ほんの少しだけお葉さんが生き易くなるよう、手助けをしただけです

120)「いいかな、又市殿。精神を尊ぶなら戦わぬことだ。剣は人の道と申すなら、刃物を交わし命のやり取りをする必要など毛程もなかろう。刃を翳すということは、相手を傷付ける、殺すということだ。違うかな」

122)「退路を確保しておくことは兵法の基本だぞ。三十六計逃げるに如かずというのはな、腰抜けの兵法ではない。戦いを回避することが一番賢い策であることは、火を見るよりも明らかだろう。将棋はな、一手も指しておらぬ時の布陣が一番強いのだ。指せば指す程弱くなる〔略〕敵味方なんて言葉は、莫迦な侍の言葉だぞ。苦呶いようだが戦いは莫迦のやることだ。敵と戦う、己と戦う、世間と戦う、どれもこれも詭弁だ。いいかな、勝負なんてものはな、モノゴトを莫迦みたいに単純化しないとつけられぬものであろうが。違うか
 違わない。
 白黒明瞭しているものなど、世の中にはない。

126)「正義というのはな、己の立場を護りたい小物の使う方便に過ぎぬのだぞ

127)又市は依頼人に同情し、的を憎むことで、己の疚しい行いを正当化していたのかもしれぬ。

207)「物を扱うのでも金を扱うのでもない、人を扱う仕事というのはな、決して割り切れないものなのだ。あちらを立てればこちらが立たず、必ずどっかに歪みが出る。人はな、もとより歪んでいるものだからな。ただ暮らしているだけだって、人は悲しいぞ。違うか」

235)「憎むってなあよ、どうなのかなと思ってよ。人ってものはよ、見上げたり見下げたりして生きるもんだろ。でもな、見下げられて肚ァ立てるのは見下げてェ奴だけだろう。人を見下げてェ奴は人から見下げられると肚ァ立てる。逆様に、見上げていてェ奴は見上げられると怖くなるもんだ。抱き寄せようとしていきなり殴られりゃ頭に血も昇るが、殴るを承知で抱き寄せる分にゃどうもねェやな」

242)「ただ、心疚しき者心穏やかならぬ者が、己の気持ちを目に映してな、生前の形を見るだけじゃ

263)「世の藪医者は、知が足りぬか技が足りぬか、いずれ何かが足りぬのですよ。知らぬ病は治せない。それでも治せると——嘘を言うのが、藪ですね

337)「あれ、稲妻と謂うでしょう。あれは、稲の花が咲く時期に雷が多いからなんだな

339)「ただね、又市さん。在って欲しいもの、在るべきだと考えられるもの——というのはね、これ、ないのに在るんですな」 ※傍点省略

359)「だから——神仏は要るのです」
「何だと」
「いいですか。人が人を裁く、人が己の物差しで他人を測る——これ、必ず不平が出ます。人の心は人には量れません。それぞれ基準が違う。だから、人は法だの掟だのを作る。作るけれども、所詮は人が作ったものですからね。でもね、それが神の下した裁きなら、どんなに不公平でも納得せざるを得ないでしょう」 ※傍点省略

393)「八方塞がりだろうが何だろうが、手はある筈だろうぜ。あちら立てればこちらが立たず、それでも双方立てるのが——知恵ってものじゃねェのか

399)「何方が何方を責めることも出来まい。人は己の寸法でしか世の中を見られぬし、他人の寸法を当て嵌められると歪んだり曲がったりするものだ。己以外は皆他人なのだからな、人は少なからず歪むよ。その歪みを堪えられる者もいるし、堪え切れず潰れる者もいる。泣き乍ら我慢する者もいれば、弾けて壊れる者もいる」

458)流行りものの如くそれを受け入れ、徒に持て囃すことなど、決してしてはならぬことだろう。
 何しろ人が死んでいるのだ。どんな仕掛けかは別として、死んでいることだけは事実なのである。死ぬと判っていて利用するのは、仮令手を下していなくても人殺しと変わらない。変わらないと志方は思う。
 信じ念じて書こうとも、何も信じずに軽軽しく書こうとも、どうであれ絵馬に名を書くことは御政道に楯突く悪行、人倫に背く凶行なのである。
 だが——実際には一切手を下さないでいいという手軽さこそが庶民を凶行に走らせているのであろうし、手を下していない以上、絵馬に名を書いた者を書いたというだけで罰することが出来ないことも事実である。
 実際に書いた通り人が死んで——。

471)だが。
 ——殺す意思は何処にある。
 手を下した者の心中は、凡そ計り知れぬ。志方には想像することさえ叶わない。奸計謀略があるのだとしても見当が付かない。だから、考えるだけ無駄である。この場合、手を下したという事実だけを認めるしかあるまい。殺人を実行した者は、どうであれ下手人である。
 でも、死んでいるのは絵馬に書かれた者達であり、その者達は実行犯とは——多分——関わりがないのだ。
 ならば。
 殺意は、絵馬に名を書いた者にこそある、ということになるのだろう。
 すると矢張り、名を書いた者こそ罰せられるべき——なのだろうか。絵馬は——絵馬の指示通りに凶行を働いた下手人は、この場合単なる凶器に過ぎないことになるからである。
 ※傍点省略

569)「青臭くなくッちゃあ他人の面倒までは見られませんよ

577)「脅しや暴力だけで人は縛れませんよ。飴を与えなくちゃあ人心は必ず離れる。〔略〕猫は強い。鼠は弱い。しかしね、窮鼠却って猫を噛むと謂う。追い詰められれば鼠だって猫に噛み付く。そういうものです。齧られりゃ猫だってただじゃ済まない。違いますか」


578)「命を捧げる鼠が居るからこそ、野や里の鼠どもは生き永らえることが出来る——山に登って死んだ鼠だけ見ていれば慥かに損なのだけれども、鼠全体としてみれば
得になってるてェのかい
 棠庵は首肯いた。
「そういうことじゃあないでしょうか」
「身を捧げる鼠——かよ」
 喰われるしかないのか。
「そんな——得はねェ」
 又市は言う。〔略〕「猫が鼠より強ェな解る。だけどもよ、猫が鼠より偉ェってこたあねェぞ

579)「鼠だからというだけで猫に礼を尽くさなければならぬ謂れはない、ということです。そんな道理はない。まるでない。鼠どもはそこを忘れている。鼠が猫の王に礼を尽くさねばならぬのなら、猫も鼠の王に礼を尽くすべきなんです。対等と知れば——」
 諾諾と死ぬことはない。
そりゃつまり——嚙めるんだから嚙み返せって意味じゃねェんだな
 はい、と棠庵は再度首肯いた。

615)「ご定法ってのは、守るべきもんですが、護ってくれるもんでもありやしょうぜ。旦那ァ盗っ人でも人殺しでも、ちゃんと捕まえて、裁いてくれるじゃねェですか。貧乏人のくだらねえ訴えにだって耳ィ貸してくれやしょう。下下は文句ばっかり言ってる訳じゃねェんですよ。有り難ェ有り難ェとも思ってるんで。でもね、ありゃ——」
 万三は櫓を指差す。
「あんなことされちまっちゃあ、如何ですよ。奉行所なんかに頼っても無駄だ、お役人は護ってくれねェぞと、あれは、そういう意味なんじゃねェんですかね

623)「人死には出すな。死んで取る得、殺して取れる得はないと、お前さんは先からそう言ってただろ。真理だよ。欠けた命の穴ァ、他のものじゃ埋められないわなあ


@S模原

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by no828 | 2018-02-15 21:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 06日

祟りとは、発する方の意志が及ぼすものではなく、受ける方の心持ちが発生せしめるものなのですよ——京極夏彦『後巷説百物語』

 京極夏彦『後巷説百物語』角川書店(角川文庫)、2007年。15(1082)

 単行本は2003年に角川書店

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 本文779ページ。かつて小股潜りの又市らと行動をともにしていた山岡百介が年齢を重ね、一白翁と名乗る老人となる。「後(のちの)」はそういう意味。

27-8)「しかし——ご老体。記録も何も信じぬとなれば、この世に確かなことなどなくなってしまうではないか
確かなことなど御座いませんわい

138-9)「生まれ乍らにして何ひとつ不自由のない生活。無条件で崇め奉られるという環境——」
 それは。
 それは逆差別ですよと与次郎は言った。
「その通りですな。いや、差別というなら、これは最上級の差別で御座いましょうね。誰に何を言っても、必ずハイと返事をするので御座いますよ。決していいえとは言わぬ。厭だとも言わぬ。絶対に言うことを聞いてくれる。そのような関係から、果たして人と人との絆が生まれるもので御座いましょうか

166)「これはね、他人事ではないのです。私達の国だって、外の国から見れば戎島と変わりがないかもしれませんぞ。私達が当たり前だと思っておることも、実は恐ろしく非常識なことなのやもしれません。ならば信じている足許が壊れてしまえば——惚けるしかなくなってしまうのではないのですか」

187-8)惣兵衛は頭の悪い人間ではない。ただ与次郎は、惣兵衛と話していると合理的というのは柔軟性のない考え方の別名なのかと勘違いしそうになる。理性的であるのなら、それは寧ろ逆であるべきではないのか。〔略〕「私はただ惣兵衛のように頭ごなしに否定するばかりというのは、却って妄信的なのではないかということが言いたいだけだ

188)「話なんぞ最初から故事つけだ

218)ええ、与次郎さんの仰る通り、物語は故事付けの後講釈で御座いますよ

205)「およそ物事はあるがまま、表から見ようと裏から見ようと、同じもので御座いますよ。皿は横から見れば平たいが上から見れば丸いもの。平たいのと丸いのでは大いに違いましょうが、どちらも皿に変わりはない」

291)「又市さん」
 百介は漸くそれだけを言うと、その場にしゃがみ込んだ。勿論平静でいた訳ではない。しかし悲しくはなかったし、慌ててもいなかった。驚きというのは、一瞬で訪れてこその感情の動きであり、持続するならそれはもう感情の体を成さないものである。

316)「心疚しき者には顔が見えたと——
 そうなんですと与次郎は答えた。
顔があったのではなく、顔を見たのです
 見えるのはなく見るのだ。そこに何を見るかは見る者の心持ち次第なのである。 ※傍点省略

388)「祟りとは、発する方の意志が及ぼすものではなく、受ける方の心持ちが発生せしめるものなのですよ
「ううむ」
 惣兵衛は腕を組んで唸った。正馬は顎を摩った。剣之進は口髭を歪めた。与次郎は——。
 なる程そうかと、妙に納得した。
それが文化というものです

422)なる程祟りとは無闇に怖いものでも抗い難い神秘的なものでもなくて、ただ、人にはどうしようもないことを無条件に耐えるために用意されたものであるのかと、与次郎はそんな風に思ったのだった。〔略〕誰の所為でもない。だからどうしようもない。避けることも出来ないし、遣り直すことも出来ない。取り返しもつかないし、理由がなければ後悔することも出来ない。そのままでは悲しいし、虚しい。だから——。

477-8)武士と賎民は、身分自体が職業だったのである。〔略〕維新で役は解かれてしまった。その代わり、取り敢えず戸籍は与えられた。だが、財産や仕事が与えられた訳ではない。否、与えられるどころか、剥奪されてしまったのだ。彼等にだけ割り当てられていた仕事も、誰がやっても良いものになった。神仏分離、廃仏毀釈などもそうした風潮を後押しした。例えば山伏修験者などは、完全に宗教者としての息の根を止められてしまった。物乞も願人坊主も鳥追も、皆ただの失業者になってしまったのである。そのうえ——。職はなくとも戸籍だけはある。戸籍があれば税は取られるのだ。

544)罪なき者を傷付けず、悲しむ者には安堵を与え、怒れる者には平穏を授け、彼方立てれば此方が立たず、此方立てれば彼方が立たず、並び立たぬが憂き世の定め、それを立たすが小股潜りと——。

613)「寧ろ、よ、妖物としておけ、とご老体は仰るのか」
妖物の子——これは、この文明開化のご時世では、単なる差別で御座いますけれどもね、その昔は優しさでもあったのです。嘗ては両方の役割を持っていたのですよ。今は片方がなくなってしまった。ただ、その女が鷺であったとしても、現在の公房卿のお立場が悪くなるようなことはないように思いますしね」

633)「塾などと云うものは儲からないのです。志が高ければ高い程、儲からない

664)「紙切れ一枚、口先三寸で、人の一生なんてものは大きく変わってしまうものなのです。又市さんのする小股潜りの仕事と申しますのはね、それを意図的に行う仕事な訳ですよ。ですから、覚悟も要るし責任も要る。軽はずみなひと言でも、考えなしの妄動でも、人は簡単に死にますし、生きますよ。又市さんはそれを善く知っていた。〔略〕ですからね、又市さんにしてみれば、そう、関わったことでその人が不幸になってしまったならば、その仕事は失敗なのですよ。彼方立てれば此方が立たず、八方塞がりの状況を、双方立てて恙なく、八方丸く収めるのが——小股潜りの信条で御座いますから

712)自分で見聞きしたものごとでも、書き記してしまえば物語。ええ。物語はどれもこれも、皆つくりものです。現実では御座いませんよ。 ※傍点省略

716)書物の中だけで生きたくなったんですなあ。結局。
 私はね、百物語を終えてしまうのが厭だったのです。百話語って怪異が起きても、起きなくても、どちらであっても厭だったのです。ええ。ですから保留にしておきたかった。
 それでね、百物語を開板しませんでした。


@S模原

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by no828 | 2018-02-06 22:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 10月 21日

幸せなんてものはね先生、今ここにあるもンでやす。ただ、それを幸せと思えるかどうか——京極夏彦『続巷説百物語』

 京極夏彦『続巷説百物語』角川書店(角川文庫)、2005年。4(1071)

 単行本は2001年に同書店

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 不思議な話を蒐集する山岡百介と裏の世界で暗躍する又市一味がその不思議のからくりを暴く。シリーズ第2弾。

 379ページの引用部分は昨今の政治にもあてはまる。

 11ページ「小者に席を外すよう申しつける」と111ページ「申し訳ないが席をはずして貰えまいか」で「外す/はずす」の表記に揺らぎあり。こういうところも気になってしまう。

80-1)「伝聞だとどうしても元の形が損なわれる。古くなればなる程細部は判らなくなる。のみならず尾鰭がつく。話の種というものは、実が生る前に集めておくに越したことはないのですよ
「それが物書きの性かい?」
「性というより業ですかなぁ」

142)「——普通はそうだよ先生。そんな浅ましい思いはないに越したことはねェ。怨む気持ち悲しい気持ちはねェ方がいいだろうよ」
「そうでしょう。ならば」
「だがな、そうした執着こそが人の証しってこともあるんじゃねェかと、俺はそう思う
「執着が——人の証し?」
「オウ、その執着が、おぎんの悪党としての迷いになってるこたァ間違いねェ。でもな、だからこそ、それがなくなっちまったら、彼奴の人としての根っこが切れッちまうんじゃねェかとな

217)「幸せなんてものはね先生、どっかにぽっかり浮かんでるものじゃねェや。今ここにあるもンでやす。ただ、それを幸せと思えるかどうか——ってことでしょうよ。人は皆夢ン中で生きてるんです。それなら悪い夢ばかり見るこたァねェと——奴はそう思う。凡て夢なら嘘も嘘と知れるまでは真実なんで」

232-3)「そんなァ迷信に決まってるじゃないか。お前さんが鼻息荒くするまでもない。誰だって知ってるわさ。みんな知ってて言ってるンだ。難癖つけて差別したいんだよ、人ってものはね」〔略〕
 ああ。それはそうなのだ。
 迷信でも俗信でも——利用する者にとってはどうでも良いことなのである。仮令不当な理由でも攻撃する口実になるなら構うまい。
 だからそうしたモノはなくならないのだ。

 百介は頬を攣らせる。それが現実なのだ。
 迷信だ無根拠だと声高に言うだけ虚しくなる気がする。

298)「死は何も生まねェと、あのお方は知っていた筈だ。人の死を悼む気持ちを持つ者ァ、簡単に死んだりゃしねェもので

379)「わざと人心を惑わしておいて、自分に都合のよい決着を用意しておくなど——為政者の遣ることのようで私は好きになれませんな

400)「武家は戦をするものや。では、何故戦をするか。己のためか、お家のためか、道のためか。違うやろ。それは皆、武家の理屈や。戦いうのは、武家のためにあるものやない。闘うために闘う戦などない。戦は民のためにするものやろう。民に背かれては、する意味がないのと違いますか


490)「人というものは——仮令どのような窮状にあろうとも、僅かでも、本当に僅かでも希望があるならば、真っ当に生きていけるものなのであろうと、拙者は思うのだ。百姓とて、縦んば飢饉に見舞われて食うや食わずの年があろうとも、来年は何とかなろう、否、来年が駄目でもその次はと思えればこそ、田を耕せるものなのではなかろうかな」

655)「幼き頃に負うた心の傷が人を変えることはありやしょう。しかしその先どの道を選ぶかは、そのお方次第。傷あるが故に慈悲に目覚める者もおりやしょう。また傷なくしても道を踏み外す者もおりやす。ですから死を好み生を弄ぶが如き道を選ぶは、死神に魅入られたと考えるより御座いやせん」

702-5)百介にはまだ——迷いがあった。
 何に対する迷いなのか、それは百介にも判らない。いや、判らないのではなく、自分でも明確にしたくなかったのだと思う。
 逃げていたのだ。
 しかし旅先で百介はそれについて、否応なしに思いを巡らせることになった。そして百介はひとつの解答を得たのだ。それは、覚悟の問題なのである。
 どう生きるか、という覚悟。
 それが出来ないのだ。
〔略〕
 夜に棲んでいる連中は、決して昼に出ようとは考えぬ。覚悟が出来ているからだ。
 昼に生きるつもりでも、同じ覚悟が要るのだろう。
 百介にはその覚悟が出来ないのである。
 いつまでも黄昏刻にいたいのだ。
 百介は、どっちつかずの餓鬼なのだ。
嫁を貰う気にならぬのもその所為だろう。

737-8)「長く生きておるとな、好いことも、悪いこともある。頭の中にな、その好いことと悪いことが折り重なって溜まっておる。その中の——好いことだけを見ておれば幸せだし、悪いことだけ見ておれば地獄だ。それを選ぶのは誰でもない、己だ〔略〕忘れるということはな、消してしまうということではないのだな。仕舞い込んで、見ないでおるというだけのこと。見ずに済むならそれで善い。しかしな、奥の方に仕舞い込んだ悪しきことが不意に表に出て来ることがある。それはな山岡殿。如何しようもないことなのだ

764-5)「バケモノなんてこの世には存在しない。しかし、人の世は厳しく、生きていくことはあまりにもつらい。だから、バケモノは必要とされるし、そういう意味では彼らは確かに存在するのである」という京極夏彦の世界観が繰り返し又市たちの口から語られるのと同時に、「仕掛け」という言葉を通してアピールされているのだ。
 現実が厳しいからこそ、人々は「お話」を必要とする。そんな人々の絶望や不安をすくいあげるために生まれてきた、必然性のある物語を京極夏彦は愛してきたし、数々の文献に残る表層的な怪異の底から人々の生をすくいあげることが、『巷説百物語』における彼のテーマなのだろう。 ※恩田陸「解説」

@K分寺

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by no828 | 2017-10-21 19:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 10日

親に媚びてるってなら、そりゃ親でいて欲しいからじゃねーの?——京極夏彦『死ねばいいのに』

c0131823_20451351.jpg京極夏彦『死ねばいいのに』講談社、2010年。5(828)

版元 → 

 1920年代の日本の話ではありません。舞台は現代日本。“死んだ”アサミがどんな人間であったかをその女と親しかったと思われる人物たちに訊いてまわるケンヤの物語。真っ直ぐな——あるいは真っ当な——ケンヤによるその人物たちの“憑き物落とし”の物語と言ってもよいかもしれません。本書を“憑き物落とし”かもしれないと認識するわたしのような読者にとってみれば、本書は読者の“憑き物落とし”をする物語とも言えるかもしれません。

 ちなみに、この物語にアサミ本人は出てきません。有吉佐和子『悪女について』、あるいは最近なら朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』。

 いわゆる「ニーバーの祈り」にも似た文章が出てきます。その部分も以下の引用に含まれます。


「死者に鞭打つみたいな感じになるじゃないよ」
「あ、それ」
 ケンヤはコーヒーカップに視線を落としたまま言った。
「それって——俺いつも思うンすけど、意味ないっすよね。死んだって悪いのは悪い訳でしょう。罪を憎んで人を憎まずとか言うじゃないすか。なら、人の方が死んじまったって罪は罪なんだし、何か良くねえことしたんなら、そのこと言うのに生き死に関係ねーと思うけど
「まあそうだけど。死んじゃったら弁解とか出来ないじゃない。だからじゃないの。例えば私が嘘言ったって判らない訳だから。不公平でしょ。そういうことよ」
「死んじゃったからって嘘言っちゃうんすか」
「馬鹿ね。嘘じゃなくても勘違いとか思い込みとかあるじゃない。だからよ。私の見聞きしたところの話なんだから、本人にしてみれば違うってこともあるでしょ
(二人目.108)

「少なくともオレらは。ニートとかも言わねえし。だいいちそういうのって、あんまし考えるのが得意じゃねーオヤジどもが勝手に枠に嵌めて呼んでるだけじゃね。だって、普通っすよ、みんな。学校行ったり行かなかったり、働いたり働かなかったり、それぐらいの違いしかねーから。あんまり変わりないっすよ。どーでもいいってか。でも、その」
 ケンヤは俺を観る。
「佐久間さん達は、何というか」
「ふん。それ言うならこっちだって変わらねえよ。ちゃんと経済活動して社会参加してるんだ。やり方は多少違うかもしれねえが、何もしねえお前らよりマシだろ」
 解りませんとケンヤは言った。
 迎合しねえな。
(三人目.143)

「あの子は——そういう子よ。他人行儀というか、甘えないというか――だから、他人には控え目でイイ子に見えるのよ」
「他人じゃなく親っしょ」
「他人よ。何度も言うけど、どれもあたしの亭主なの。あの子にしてみれば他人よ。だから——」
 色目を使ったのかと思ってしまう。
「——ただウケるって話じゃないの、親爺に」
「あのさ、それ解るわ」
 ケンヤはそう言った。
「何が解る訳よ」
そういう、親爺に媚びるつーか、そうすることで生き残ろうとしてたんじゃね? だってアサミにしてみりゃすげー負い目じゃん。自分の所為であんたが苦労してるのは判ってる訳っしょ。自分のために結婚してさ、自分のために離婚とかなると、やってられねーじゃん。だから、新しい旦那に好かれようと努力したんじゃねーの?
何よ。色目使って誑し込んだってこと?
 ケンヤは黙った。
「何よ」
「あんたさあ」
 何だ。
 何だよこいつのこの眼。
子供が親に媚びるのと、色目使うのと一緒かよ。誑し込んでるのあんたじゃん。あんたにしてみりゃ金蔓か、何か知らねーけどもさ、アサミにしてみれば新しいお父さんじゃねえの? お父さんに嫌われたくないと思う子供が、色気出す訳か? それ狂ってね?
「狂ってる?」
「そうじゃん。あのさ、小学生とか中学生だぜ。お子様まっしぐらだぜ」
「でも、最後は」
「高校にもなれば男欲しけりゃてめえで探すって。何で母親のお下がりに色目使わなきゃなんねーの? 親に媚びてるってなら、そりゃ親でいて欲しいからじゃねーの?
(四人目.250-1)

 ——死ねばいいのに

「何だって?」
「だってどうにも出来ねえなら我慢するか、我慢出来ねえなら死ぬっきゃねーじゃん」
「何だって?」
だからさ。あんたらさ、あんただけじゃねーけど、どうしてそんなに簡単なことが解んねー訳? どうにも出来ねーどうにも出来ねーって。そんなことそうある訳ねーって。必ずどうにかなるのに、どうにもしないだけだって
 しない?
厭なら辞めりゃいいじゃん。辞めたくねーなら変えりゃいいじゃん。変わらねーなら妥協しろよ。妥協したくねーなら戦えよ。何だって出来るじゃん。何もしたくねーなら引き蘢もってたっていいじゃん
(五人目.330.傍点省略)

「あのさ、アサミはさ、俺に死にたいって——そう言ったんだよな。別にそれ程不幸でもねーし、切羽詰まってる訳でもねーし、哀しくも辛くもねーけども、それでも、死にたいってさ。アサミ、何にも望んでなかったっすよ。大して愚痴も言わなかったんすよ。俺が聞いた限り、ここ何箇月かに会った連中の誰より不幸すよ、アサミ。それなのに、文句は言わねーの。でも、ただ死にたいって
「死に——たい?」
だから俺は、アサミのことが知りたくなった。でも他の連中はさ、みんなぐずぐず不平ばっか言って、自分が世界一不幸だみてえなことばっか言って、それでもみんな死ぬとは言わねーの。そんな我慢出来ねえ程不幸なら、死ねばいいじゃんて思うって
(331)

「なら——もう少し反省の態度を示すとか、贖罪の証しを見せるとかだな」
アサミに対して、って話すよね
「え?」
それと、アサミの関係者に対してって話じゃないすか。アサミが死んで哀しむ人達に対しては、謝りてーし償いたいすよ。哀しませたの俺だし。でも、五條さん、アサミと関係ないっすよね? アサミ死んで、哀しいとか思ってる訳じゃないすよね。そうなら俺の弁護なんかしねーっしょ」
「いや、哀しいとか哀しくないとか、そういう問題じゃなくて」
「だからそういう問題じゃない訳すよね? なら五條さん相手に下向いてみせる意味ないように思うんすけど。俺、五條さんに何か謝らなきゃいけねーことしたっすすか? なら言ってください。俺、迂闊な男なんで、気づかないこと多いんすよ。迷惑とか、かけてねーっすよね? まあ、こうやって弁護してくれてるのも仕事っつー理解でいい訳ですよね。なら、これも迷惑かけてるってことじゃないすよね?」
「迷惑ということはないが」
 近いものはある。
 国の依頼だからといって差をつけるつもりはないのだが——このままだと迷惑に近い。
「なら、どうして五條さんの前でしおらしくしてなきゃいけねーのか、俺には解らねーんすよ。人殺したら関係ねー人にも謝らなくちゃいけないんすか? 誰も観てねーとこで殊勝な態度取ったり、関係ない人の前で落ち込んでるようなポーズ取ることが、何か意味あることなんすかね
(六人目.346)


@研究室
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by no828 | 2014-08-10 21:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 02日

生死の枠組みを取り払ってしまうとただの「ラブストーリー」ですもんね——京極夏彦『対談集 妖怪大談義』

c0131823_2021097.jpg京極夏彦『対談集 妖怪大談義』角川書店(角川文庫)、2008年。3(826)


版元 →  ただし、右掲カバーデザインはわたしが読んだものとは違います。
単行本は2005年に同書店


 題名のとおり、京極夏彦とその筋の方々との妖怪についての対談が収められています。対談の相手は以下のとおりです。

 水木しげる
 養老孟司
 中沢新一
 夢枕獏
 アダム・カバット
 宮部みゆき
 山田野理夫
 大塚英志
 手塚眞
 高田衛
 保阪正康
 唐沢なをき
 小松和彦
 西山克
 尾上菊之助
 水木しげる、荒俣宏

 民俗学や歴史学やノンフィクションへの言及があり、以下の引用もその部分が多くを占めています。引用も多めです。京極本人は自分を“学者”だとは規定していませんが、今回の本でもほかの本でも、“学問とは何か”、“科学とは何か”を考えさせる発言・文章が綴られることが多いです。「学問」や「科学」の要件には関心があります。


京極 妖怪探訪の大冒険はまだまだ続く予定ですね?
水木 本当は、文化人類学がやるべき仕事なんです。
京極 学問は体系から逸れたもんは中々扱わないです。そのほうが無難ですから。しかし何もかも綺麗に嵌るもんではないし、お化けなんてものは大抵型破りなモノですからねえ。
水木 学者のフィールドワークというのは、自分自身が面白がるというよりは、何らかの研究成果を得ようとしてするわけです。その点、水木さんは純粋な面白詩人ですから。
京極 それは先生の作品を読めば分かります。お好きな題材だと俄然筆が乗っている(笑)。先生の場合、創作の動機は……。
水木 自分を喜ばせるため。自分が面白いからです。読者は水木さんの次なんです(笑)。
(15)

宮部 この間の首相の「神の国」発言ですけど、日本は八百万の神の国、神々の国ですと言っておけば、かえってよかったと思うんですよ。
京極 やはり某氏の発言で「国体」という言葉も問題になりましたでしょ。国体というのは辞書にも「天皇を中心にした国のあり方」と出てるわけで、この場合いいわけは利かないんですけどね。これは明石散人〔あかし・さんじん〕さんがお書きになっていて、僕もなるほどと思ったことなんですが、国体というのは本来、主権者たる国民が所有するもので、政府が関与すべきものではないというんですね。国体と政府の一致こそ全体主義なんであって、明治期のように政府が国体に干渉しだすと結局国を滅ぼすことになると、こういう主旨で。
 神の国にしても、日本という国家は大昔から神国思想で、それ自体は問題ではないという。まあ、それはそうですよね。どの国にも建国神話があるし、国民が国家の正統性を求めるのは当然で、そういう意味ではどこの国もそれぞれ神の国なんですね。ただ、国家と政府は違う。ところが明治政府は政府理念に神国思想を持ち込んでしまった。そこがいかんのだと明石さんはおっしゃる。おかげで「国体」も「神の国」も、結局本来的な意味では使えない言葉になっちゃったわけです。
(128-9)

京極 本来差別的な意味はない言葉でも、できるだけ使わないほうがいい言葉、配慮が必要な言葉はありますよね。〔略〕僕は昭和二十年代が舞台の小説を書いているんですが、ラーメンは「支那そば」とするほうが考証的には正しいんですね。でも中華そばにした。それは変だと指摘する人もいるんだけど、考証的に正しければいいというものではないです。言葉狩り云々という人もいるけれど、言い換えができるなら、どんどん言い換えたほうがいいと思うんです。
宮部 私もそう思っています。ここはどうしても、これを使わなければならない、嫌な思いをする人がいることも含めて、ここはその嫌な思いの痛みを描かねばならないのだから、使うべきだ、という判断を迫られるケース以外はね。
京極 そうですね。〔略〕
 まあ、完璧に配慮して書くとなると一行も書けなくなっちゃうんですが、一人でも読んで不快だという申し入れがあったのなら対応するべきなんじゃないかと思うんです。団体からの申し入れだと対応するけど、一人だとしないというのは変でしょう。こういうのは数の論理で割り切れる問題じゃないですよね。傷つく気持ちは一人でも百人でも一緒ですよ。政治的な問題というより、むしろ優しさとか思いやりの問題であるような気がするんですが。
宮部 人としてね。
(130-1)

京極 その昔、山田〔野理夫〕先生が、怪談は美しくなければいけない、とお書きになっておられたのに、感銘を受けました。本がボロボロになるほど読み込みましたから。僕も、怪談めいたものを書いていますが、難しい。ただ怖がらせるだけではなく、やっぱり、美しさのようなものがないと怪談にならないんですね。今、ホラーっていう括り方がありますでしょ。ホラーと怪談とを分けるとすると、いろいろな考え方はあるんでしょうが、ひとつは美学があるかないかだと僕は思うんですよね。(178)

山田 僕、やっぱり日本の怪談はすばらしいと思うんだ。その筆頭が、上田秋成。日本の怪談文学賞をあげるとするなら彼だな。
京極 『雨月物語』
山田 それから滝沢馬琴。上田秋成は指が二本ないですな。
京極 ええ。
山田 馬琴なんてのは……。
京極 目を患ってますよね。
山田 ま、もっとたくさん例があげられますが。小泉八雲も片目でね。それから、水木君。あの人も片腕ないんだよな。
京極 そうですね。
山田 人間、そういうふうだと、怪談に興味もつのかなあ。
京極 ああ。なんかわかる気がしますね。何らかの欠損がある場合、その部分を埋めようとする気持ちが出てきますからね。想像で埋めていかなきゃいけないわけですから。
(188)

大塚 結局、柳田が何をやってるのかは同時代の人々は意味分かんなかったと思いますよ。花袋なんかは自分らの自然主義小説への嫌味で『遠野物語』を書いてきやがったとか分かってたと思いますけど。僕が面白いと思うのは柳田の近代国家にどこかで同一化できなかった部分。民俗学とは要するに、近代国家ができあがっていく中で、国民とか伝統っていう概念をつくることに荷担していく学問で、柳田の山人論だって植民地政策論なんです。そういうことをやっといて「平地人を戦慄せしめよ」とか『遠野物語』の序文で書いちゃうところが矛盾しているんだけど本人は気付かない。
京極 その分裂加減は実に面白いと思いますね。フロイトなどもそうですけど、あの手のものを立ち上げる人には、そういう人が多いでしょ。例えば柳田國男と国家の問題みたいなテーマに真正面から取り組んで論じる人は多いですが、読んでみるとどれもちょっとずれてる気がするんです。この男は、そんなんじゃないと思えちゃう。それに結局、彼は民俗学に関しては最後まできちんとした論文は書かなかった人じゃないですか。整然としているクセに結論も出さないし。
大塚 農政学の論文とか読むとちゃんとした論文も書けるはずなんですけどね。わざとああいうもの書いている。実は論理的な文章なんですけどね。
(199)

京極 たぶん国家とかイデオロギーとかいう前に、彼〔柳田〕が夢想していた理想的なあり方というのに沿って、民俗現象の中から都合のいいところをチョイスしていったという感はあるんですよね。それがいかんというわけではなくて、民俗学ってそういうものなのかもしれないなと思うんだけど。
大塚 だから民俗学の本質はインチキ古代史、偽史だって思わないと。これは僕が大学を離れてものを書き始めた時に、柳田の弟子でもあった僕の先生の千葉徳爾先生に言われたことで、突然、ハガキが来て、民俗学は偽史だから、君はそっちのほうを少し研究しろって。目からウロコが落ちましたね。
京極 すごい。民俗学は偽史である。それは、もやもやしている部分をすかっと言いあてている衝撃的名言かもしらん(笑)。
(200-1)

大塚 『後狩詞記〔のちのかりことばのき〕』とか『遠野物語』とかを書いていた頃の初期の柳田にとって「山人」とか「山婆」は妖怪ではなく先住民の末裔であり、つまり山人実在説ですよね。村井紀なんかが指摘してますけど「山人」ってつまりは明治国家が初めて植民地にした台湾の山岳系民俗がイメージされてる。山人論が植民地政策論であるっていうのはそういう部分をいうのですが、「山人」はその意味でリアルなんですよね、明治国家の官僚としての柳田には。(203)

京極 さっき、柳田は美文家だという話になりましたが、実は僕、ある時点から民俗学は文学だという割り切り方をしていたようにも思うんです。結局、歴史学と違って、こうでなければいけないとかこれが真実ということはないわけですから。宮田(登)先生のご本なんか読んでいると、すごくわかり易いし、面白い学問だなあと思うんだけれど、一方で、何でもありなところに落ち着いたりもする。さらに文学的素養がある学者のほうが俄然おもしろい。折口(信夫)にしても柳田にしても、そこが評価されたというところもあると思う。小松〔和彦〕さんにしても、僕は最初あの文体にひかれたんですよね。(207)

京極 保阪さんにはタイトルもズバリ『死なう団事件』という著作がありますね。
保阪 僕の処女作です。
京極 これは「事実」の見方に対する面白いケースだと思うんです。僕は歴史学者ではないし、ノンフィクション作家でもないわけですが、歴史を研究している人たちとお付き合いしていますと、どうも「事実」と「記述」ということに対する見方というか、スタンスが全然違っていることに気づかせるんですよ。
保阪 といいますと?
京極 こういった言い方をすると変なんですけれども、僕は民俗学のほうにシンパシーを持ってずっと育ったんです。文献学者の方々はどうしてもテキストを重視しますでしょう。さらに歴史学者になると、テキストを重視するだけでなく、テキストから汲める事実だけを重んじますよね。民俗学の場合はそうではない。生きている人から話を聞き、現在あるものを見て、そこからさらに先を考える。それをして「民俗の古層を探る」なんて言うわけですが。
(297)

京極 そうすると、保阪さんが「最後の関係者」になってしまったということになるわけですよね。当事者のひとりになってしまう。「客観性」を目指すノンフィクションでも、探っていくうちに保阪さんも関係者になってしまう。関わることによって事実が変わっていくということですよね。僕なんかは好んでそういう題材を扱うわけですけれども、すごく生々しい事例を聞いたような気がする。
保阪 僕は「死なう団」で最初にそういう経験をしましたでしょう。そうすると、変な表現だけれども怖いものがなくなったんです。ノンフィクションで僕が書いて人が死ぬこともありうる。はじめはものすごく悩んで悩んだけれども、途中から、「あ、それは逆に僕にもありうることだ。僕もいずれそういうことで死ぬのかもしれない。人間がつくってきた歴史なんてそんなもんだ」って割り切りました。
(303)

保阪 恐怖を目に見えるようにするのは大変な知恵ですね。
京極 発明ですね。例えば秋田の「なまはげ」。あれは言ってみれば教育的な指導なわけです。「悪い子はいないか」と子供を威して教育的に指導する。あれはみんな鬼だと思ってますでしょう。でもいわゆる鬼じゃないんですよ。外から訪れる異人、要するに人間以外のモノでありゃいい。人間以外のモノが外部から倫理を説きにくるという。そのほうがお父っつぁんに怒られるより怖いわけですよ。そういう仕組みがつくられている。
(318)

西山 歴史学というのは、リアリティにむかう学問だと思うんです。僕らが学校で教わったのは実証的に事実を明らかにすること。確実な史料を集めて、それを批判的に読み込んで、その背後にある歴史的事実を一つでも二つでもつかみ出して来い、それが歴史学の王道なのだというふうに教わってきたんです。でも、事実って何よって言いたい時がある。二十一世紀を生きる僕たちが振り返ってみる事実よりも、前近代の「いま」を生きる人々にとってのリアリティって何だろうって。
京極 なるほど。
西山 以前、僕は地獄絵の絵解きの研究をやっていたんです。地獄は想像の世界だから事実としてあるわけではない。でも前近代人にとっては、地獄は生々しい現実としてあるわけです。室町時代の日記に疫病の流行った村で火事があったと書いてある。住民たちが、地獄から死者を迎えにきた火車の火だったんだろう、と解釈を加えてるんですね。現代を生きる僕たちが、いやそりゃただの火事だよ、と言ったって何の意味もない。問題なのは中世人のリアリティ。歴史家にとって大切なのは、当時を生きた人々の五感を、あるいは第六感をもふくめて、明らかにしてゆくことじゃないでしょうか。
京極 リアリティの在り方が異なっているだけで、リアルであることに今も昔も変わりはないでしょうし。
(398-9)

京極 いや、日本の幽霊話の基本は、怨恨や憎悪じゃなく、ほんとうは情念、執着なんですよ。ウラメシヤは、単なる憎悪とはちょっと違う。祟られて死んだ被害者が化けて出て来ないのは、執着がないからですよ。「なんでアタシが死ななきゃいけないの?」という気持ちだけじゃ化けて出られない。最初のお話にもありましたが、これ、生死の枠組みを取り払ってしまうとただの「ラブストーリー」ですもんね。幽霊話を生者と死者との交流譚として位置づけてみると、日本の怪談は根本的にラブストーリーが骨子にある場合が多い。有名な幽霊のほとんどが女性だというのも、そのへんに理由があるのかもしれない。(429)


@研究室
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by no828 | 2014-08-02 20:23 | 人+本=体 | Comments(2)
2013年 03月 20日

構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな——京極夏彦『豆腐小僧双六道中ふりだし』

c0131823_1765660.jpg京極夏彦『文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし』角川書店(角川文庫)、2010年。27(682)

単行本は2003年に講談社。

版元 → 


 映画になったようです。が、もちろん観ていません。

 言語、認識、存在。改めて書いておきますが、科学とは何か、に関心のある人は、京極夏彦はおもしろく読めると思います。わたしもはじめはとっつきにくかったのですが、読んでみたらとてもおもしろかったのでした。

そもそも妖怪と申します言葉は、単に怪しいというだけの意味しかない言葉だった訳でございますな。(7)

「いいか、俺はな、家がぎいぎい鳴るてェ現象そのものなんだよ。家がぎいぎいガタガタ鳴るのはいつだって俺の所為だ。つまり俺は、家鳴り現象の説明としてこの世に居るんだ。だから鳴屋なんて名前なんだよ。けどよ、お前の方は何の説明もしてねェだろ」(47)

 そもそも人に見られるためだけに、人に見られている間だけ、束の間の夢幻のように存在を許されるのが妖怪の本分でございます。その妖怪が、誰にも見られていない状態——つまり一人きりの状態で、現世にとどまっていることと申しますのは、これ、稀有なことなのだと御諒解ください。
 ならば妖怪は元来寂しがり屋なのかもしれませんな。
(85)

「で、でも、そうだ、お化けは誰かが覚えていてくれれば、また復活するんだとか。で、では人は——」
〔略〕
そりゃあ人間も同じだ。誰かが覚えている限り、なくなりはしない。だが残るのは人そのものじゃなくて観念だからな
「かんねん?」
「こいつは死ねばただのゴミ。こいつ自身はもう二度と蘇らん。こいつの自我はなくなっちまう。でも、こいつのことを覚えてる連中が居る限り、こいつは記号として有効なのじゃ」
(122.傍点省略)

 しかしこの禅問答——公案と申しますものは、考えてしまってはいけないものなのでございます。答えはございません。下手に論理的に考えたり致しますとドツボに嵌ってしまいます。
 小賢しい考えを巡らせたり致しますと却ってパラドックスに陥ってしまったりする訳でございます。それもまた当然のことでございます。公案と申しますものは、逆説的状況に直面することで、飛躍的に論理を超克することを求める修行なのでございますな。ですからぐちゃぐちゃ考えてはいけませんな。瞬発力勝負でございます。かといって、ウケ狙いというのも、これはいけません。
(201)

言葉は本質ではない。従ってありとあらゆる諸相で発展進化しよる。例えば坊主は鮎の事を剃刀と呼ぶ。魚の鮎と剃刀はまるで別物、無関係じゃが、言葉の上では同じものになってしまう。かみそりの四文字の上で区別はない。使う者が使う環境に応じて区別しておるというだけだ」(206.傍点省略)

多様な解釈、多様な文化——その多様さが豊かさに繫がるのだ。何を誰が見ても同じように考えるような世の中は、恐ろしいとは思わぬか?
「よく解りません」
「正直だな。良いか小僧。この世の中に絶対に正しいことなどあり得ないのだ。しかし——例えば解釈が一通りしかなかったなら、それが正しいと思うてしまうであろう?」
「はあ」
「みんながそう思うておる。異を唱える者も居らん。当然のようにそう思うわなあ。それで今度は、その解釈が間違っておる——ということになればどうじゃ」
(279)

「いかんわ。過激な理想論者に武力を持たせると人命を疎かにし始めることがあるからな(419)

 しかし、よくよく考えてみますってェと、迷信に科学が、身分やら階級やらに貧富の差やら学歴やらが取って代わりましただけのことでもございまして、構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな。結局、説明の体系やら解釈やらは大きく変わりましたものの、差別意識だの何だのというものはそのままの形で温存されておりましょう。(520)

 この「構造」は、わたしの思考上にもよく出現します。結局何も変わっていないのでは、ということです。


@研究室
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by no828 | 2013-03-20 18:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 28日

非常識な出来事の原因は非常識であるべきだな——京極夏彦『どすこい。』

c0131823_17405730.jpg京極夏彦『どすこい。』集英社(集英社文庫)、2004年。168(628)

単行本は『どすこい(仮)』として2000年に同社より、また、新書版が『どすこい(安)』として2002年に刊行。

版元 → 


 余裕はあまりないのですが……どすこい。

 京極夏彦はこういう作品も書くんですね。寝っころがって読むのにも余りあるほどの(考え尽くされた)無意味な作品です。次の作品が前の作品をメタ的に位置付けていくような構造で短篇が連作されています。

一同は、緊張感も焦燥感も同時に喪失した。そうなると人間は自堕落になる。(233)

「そうだなあ。非常識な出来事の原因は非常識であるべきだな(510)

 百鬼夜行シリーズであれば、「非常識な出来事の原因は常識であるべきだな」になると思いました。

 O先生は完全な覆面作家で、性別を除けば一切の私的情報を公表していない。著作に著者近影すら載せないという徹底ぶりである。読者との接点をテキストだけに絞り込むという考え方は大いに賛同できるし、常常見習いたいと思っている。(422)

 これは京極夏彦自身の考え方では必ずしもないようです。→ 

 誤植(と思われる箇所)
 誤 自身(300ページ、7行目・8行目)
 正 自信

@研究室
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by no828 | 2012-11-28 17:56 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 08月 02日

生きた躰そのものが魂で御座居ます。生き残った者の心中にこそ冥府はある——京極夏彦『巷説百物語』

c0131823_1526217.jpg
119(579)京極夏彦『巷説百物語』角川書店(角川文庫)、2003年。

版元 → 

単行本は1999年に同書店より刊行。


 久しぶりの京極夏彦でした。悪者を退治する“悪者”のお話です。あるいは、人間の認識を操作するお話です。

「——殿方相手にして生意気なこと言うようで御座ンすがね、あやかしなンてのは、有りはせぬかと疑う時には必ず顕れるし、ないと思えば決して出ますまい。恐いと思えば古傘だって舌出して手招きしましょうし、枯れ木に掛けた古草鞋だって傘の裡を覗きましょう。世に奇ッ怪と称えるもンは、全て人が自ら呼び寄せるもンなんで御座ンすから、自ら祓い落とせるものでも御座ンしょうよ——(81)

 人殺しに才能のあるなしなどがあるものか。
 あるとすれば——それは技術ではあるまい。
(126)

「俺達ァお上の犬でもねェ。義賊でもねェ。人を裁くとか、悪を討つとかいう大義名分たァ縁がねェ。悪党だから死んでもいいなンていううざってェ小理屈も俺達にゃァ関係ねェ——」
 そこで又一は言葉を切った。
「——裁くだなんて烏滸がましくて、笑っちまうじゃねえか。そうでやしょう先生——」
(131)

知ってしまって生きちゃいられねェやな
 又一は一層昏い眼をした。
「この世は悲しいぜ、玉泉坊。その婆ァだけじゃねえぜ。おまえも奴〔やつがれ〕も、人間は皆一緒だ。自分を騙し、世間を騙してようやっと生きてるのよ。それでなくっちゃ生きられねェのよ、汚くて臭ェ己の本性を知り乍ら、騙して賺〔すか〕して生きているのよ。だからよ——」
 俺達の人生は夢みてェなものじゃあねえか。
 又一はそう言った。
無理に揺さぶって、水かけて頰叩いて、目ェ醒まさせたっていいこたァねえ。この世はみんな嘘ッ八だ。その嘘を真実〔まこと〕と思い込むからどこかで壊れるのよ。かといって、目ェ醒まして本物の真実見ちまえば、辛くッて生きちゃ行けねェ。人は弱いぜ。だからよ、嘘を嘘と承知で生きる、それしか道はねえんだよ。煙に巻いて霞に眩まして、幻見せてよ、それで物事ァ丸く収まるンだ。そうじゃあねェか——
(464)

生きた躰そのものが魂で御座居ます。生き残った者の心中にこそ——冥府はあるので御座居ます。だから——死したるものは速やかに、あなたの心の中にお送りせねばならぬのです。そうでなくては生きている者の方の示しがつかぬ。千引の石とは、この現世〔うつしよ〕と、あなたの心の間に置かれている岩。それを勝手に取り払っては——あなたが立ち行かなくなるだけに御座居ますぞ。あなたの一方的な妄執で黄泉津比良坂を通されたのでは——女達も堪りませぬぞ」
「い、言うことが、わ、解らぬ」
死者は己の中にあり、現世には決して戻りませぬ。だからこそ、屍体はモノと心得るが礼儀に御座居ましょう」
(498.傍点省略)


@研究室
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by no828 | 2012-08-02 17:00 | 人+本=体 | Comments(0)